ことばの下のことば(1)

 散歩がてら、川沿いの道を下って近所のホームセンターまで出かけてみました。
 4月最初の週末のホームセンターはひどく混み合っていました。それもちょっと変わった客層で。微妙に身の丈に合わないコートを着た若者と、その親とおぼしき二人連れがたくさん。ちょっと前まで不動産屋の前でよく見かけた、あのなんだか落ち着かない感じは、やっぱり制服の上から着るコートを無理から私服の上に着ているせいなのでしょうか。そう、新入生のお引っ越しのシーズンです。

 こうやって書いている分にはのどかな光景ですが、お店はそれなりに修羅場で、もちろんのことながらちょっと後悔。折からの春風が初々しい顔によく似合う若者を尻目に、ノートパソコンの調子が悪いからエアーダスターを、なんて、この店の中で一人むさくるしい風情いっぱいの自分にたいする自分からのイヤミにしか思えないお買いあげ商品です。吹く風も、その風に吹かれるものも違いすぎて悲しくなってくるほど。

 しかし、全体としては微妙に暢気な景色がこうして目に入ったのは、そういえばまだ自分もそんなくらい若い頃・・・とは言いませんが、まだ院生成り立てくらいの頃に、この本のことを、先日のエントリーでもちょっと話題に上ったとある先生から、はじめて聞いたのじゃなかったっけっか、という、そんな記憶が頭をよぎったせいでしょう。そうです、折からの駘蕩な春の風を切り裂いて思わず「にゃー」と叫んでしまう(少なくとも情報を入手したときのわたしはホントににゃーと叫んでしまったのですが)本の翻訳が先日刊行されました。ジャン・スタロバンスキーの「ソシュールのアナグラム 語の下に潜む語」(金澤忠信訳、水声社、2006)でございます。今の段階ではまだ原題の"Les mots sous les mots"の方が通りがいいかもしれません。いずれにせよ、スタロバンスキーによるソシュールアナグラム論、無事翻訳が出ました。まことにめでたい。こいつは春から縁起が良い。たぶん、全国3000人のラカン読者のうちの200人くらいはわたくしと同じように「にゃー」と叫んでしまうこと間違い無しのよいニュースです。いや、にゃーとは叫ばないかもしれないけど。数ももうちょっと多いかもしれないけど。というか、多いと良いけど。
 意外といえば、訳者さんのキャリアからいって、版権が取られたのはまだわりと最近のことなんだろうな、ということでしょうか。未邦訳の名著というのは確かにいくつもありますが、大抵は版権交渉は終わっているのに訳者が塩漬けにしているだけ、というパターンが多いのです。スタロバンスキーの著作自体はそれなりに邦訳も多いため、てっきりその口だと思っていました。それにしても、水声社さん太っ腹。ミルネールの「言語への愛」が出たときもそう思ったけど。ありがたいことでございます。

 誤解を招くといけませんが、スタロバンスキー本人のフランス語はそのまま教科書に載せたいくらい平明でありながら格調の高いものですし(当社比、じゃなくラカン比)、ソシュールのノートからの抜粋も、想像以上に整った文章になっています。ですが、とにかくギリシャ・ラテンの古典の知識、詩法の知識から、当然言語学の知識まで必要なこの本は、原著では正直読んだけど読んだと言える自信はない本でした。原著ではソシュールの引用箇所は平文で、スタロバンスキーの論述はイタリックになっているのですが、そのイタリックが見にくい、という、八つ当たりのような苦情もおまけも付けておきましょう。ついでにいうともう結構長いこと原著が絶版な気がするという事情もありますから、よい翻訳で読めるというのは、なおさら貴重な機会です。

 そりゃ、日本語になったからといって、特に韻などという体感的なレベルの話が実感を持って理解出来るようになったりするわけもないのですが、訳注や用語解説のおかげもあって、だいぶ幸せに読書をすすめることが出来ます。スタロバンスキーによる日本語版への序文も、今の時点から見たこの作品の位置づけなどが聞かれて有益なものです。ちょっと問題といえば、ソシュールからの抜粋箇所、翻訳では地の文とは字下げで区別していますが、ソシュールの抜粋が長く、数頁まるまる続いたりするために、たまに区別がつきにくいという欠点もあることでしょうか。

 で、もちろん、「ソシュールアナグラムってなに?それがどうしてラカンの研究者にとっても嬉しいことだったの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。ソシュールアナグラム論があるということは、日本では丸山圭三郎の紹介もありますし、だいぶ昔にこの著作自体の一部の訳が雑誌に出た(どこだっけ・・・)ような気もします。ラカン関係だと石澤誠一さんが「翻訳としての人間」で触れていましたね。ラカン本人も、エクリの503頁の脚注でスタロバンスキーの1964年の論文に触れていますが、この論文はスタロバンスキーの「ソシュールアナグラム論」のなかで最初に発表されたもので、もちろんこの本でも1つの章を構成しています。さらに、『ラディオフォニー』の冒頭の質問への回答のほか、セミネール第20巻第八章第三節冒頭や21巻(1974年4月9日の講義)などでも再びラカンソシュールアナグラムについて触れていますが、後者二つは恐らく1971年の本書の出版を受けてのものではないかと思います。とはいえ、本格的な議論というレベルではありません。
 また、フロイトの読者であれば、『鼠男』症例でフロイトが患者のもちいたアナグラムを分析(例のアーメンとザーメンの話ですね)していたことや、『夢判断』のいくつかの章、とりわけ、「イルマの夢」を含む「夢の作業」の節などでのアナグラム分析(AlexとLaskerとか)を思い出されるかもしれません。


 さて、こうして並べていくと、そうだよねそもそも夢判断の昔からアナグラム精神分析にとって大事なものだったよね、ということはいやでも思い出されてきます。でも、ここではちょっと搦め手。一つはテレパシー論、一つは『狼男論』を、どこか連想させられる、というふうにもいってみましょう。で、それが何でという話を、スタロバンスキーの著書と絡めながら、また次回以降話していきたいと思います。今回はまず、素晴らしい著作に、非常にしっかりとした訳書が出たことを言祝ぎたいと思う次第。