大失敗

 主体無き知、これは逆説でしょうか。

 もちろん、無意識というからには、自分が知らない何かの知があるんでしょ、ということくらいはすぐに思い浮かびます。でも、問題はこれをどう捉えるか。無意識とは、英語でもドイツ語でもフランス語でも、そして幸い日本語でも(?)意識していない、という、否定辞を頭に乗っけられたかっこうの単語です。で、「意識していない(ここはあえて、「無意識的に」ではないことにしましょう)」という状況、つまり形容詞から、無意識という存在を名詞として導くことが妥当なのかどうか。ラカンは最晩年にそれについてこんなことを語ったことがあります。無意識的inconscientというのは無意識inconscienceとは何も関係がない、と。そんなわけでラカン先生、ドイツ語の無意識Unbewusst、これに部分冠詞のdeを足して、こう翻訳しました。de une-bevue(大きな間違い)、と。bevueはエラーを越えてへまとか大チョンボみたいな意味ですね。1976年11月16日の講義からの引用です。

 この年のセミネールは Le seminaire livre 24(1976-7)"L'insu que sait de l'une-bevue s'aile a mourre", と書いておきはしますが、いかんせんタイトルは翻訳不能なことで有名です。当然私も訳せません。s'aile a mourreが、c'est l'amour.「無意識がそれと知らず知っているもの、それは愛だ」という語呂合わせになっているという話は本人もしていますが(Ornicar? no.17, p.18)、直訳しろといわれると困っちゃう、という。とりあえず、ailerは翼をはやす、ですから、s'aileで翼が生える?mourreは昔良くやった遊びで、お互いに数を叫びながら指をあげて、相手の言った数が上がっている指の合計と当たってたら負け、というあれです。ね、訳せないでしょう?プロのラカニアンの方のご協力をお待ちしております。とりあえず、Ornicar?の12-17巻くらいにも所収ですので、公式なものも日本でも慶応に頼めば一部は読めるはずです。無い部分は海賊版で補いましょう。

 ともあれ、ここで強調されているのは、形容詞じゃなくなって名詞になったということ。どういうことでしょう。意識していない、という状態、ではなく、なにか無意識という実体をどこかに位置するものとして想定しているということでしょうか。それは、いかにも「らしくない」感じを与えます。無意識の前存在論的性格、とかいうセミネール11巻での話はどうなったのでしょう。「無意識は存在するのでもなく、存在しないのでもなく、実現されないものに属している」(31頁)というその性格は。

 で、ご本人は、というと、こう書いています。


「無意識とは常に一つの属性にとどまります。あるいは実体に、あるいはその下にあると想定される何ものかに。分析家が語ること、それは推論に過ぎません。想定された推論、それ以上のものではありません。象徴的な創造物によって私がそこに具体化しようとしたのは、まさしくそれはその宛先には届かないという運命をもっています。それが口にされるということはにもかかわらずどうして起こりうるのでしょう。」(Ornicar?, no.17, p.19)

 属性であり実体、っておっさんどっちやねん、という話です。相変わらずあてにならないオヤジです。仕方ありません。では、もう一方のbevueのほうから考えてみましょう。躓き、失敗、語から語への滑り。さしあたり、これが大失敗Une bevueに与えられた意味です。「大失敗bevueとはこの意識のために我々に残されている唯一の意味なのです。」(1977.5.10)しかし、「une-bevueの知の機能というものを強調することで、実際に、それぞれの生がよりよく折り合いがつくいう事態を引き起こすことができます」(Ornicar?, no.12, p.3)ともいっていますから、やはり知でもあります。そして、なんらかの形で人間の生をうまいこと運んでくれる、と。しかしこの知は、自分のことを、というより、自分が知っているということを知らない知です。「une-bevueは、知っているものとしての知として基礎づけられるものに代えて、それを知ることなしに知っている知の原則を置き換えるもの」(1976.12.21)

 さらに、ラカンはいいます。


「無意識はフロイトによって、どういう訳か、メンタルなものに同一視されました。これは少なくとも、メンタルなものは語によって織りなされているという事実から帰結したものですが、私にはこれはフロイトの示した定義のように思われますが、その言葉たちの間にはつねに大失敗bevueの可能性があります。そういうわけで私は現実的なもの、そこには不可能しかないといったのです。ここで私は躓きました。現実的なものは考えることの不可能なものでしょうか、もしそれが書かれることをやめないというなら。ここには微妙な相違がありまして、私はいわれないことをやめないとは申しませんでした。たとえそれは現実的なものとは私はそう名付けましたが、それは書かれないということに過ぎなくても。メンタルなものとはよろず、つまるところ、私がサントームと書いたもの、つまりはシーニュなのです。シーニュであるということはどういうことでしょう。私はそれに頭を悩ませていたのです。否定は真理でしょうか。・・・このことは、フロイトが本質的なものとまで高めた否定Verneinungのなかに我々を導きます。彼は否定は肯定Bejahungを前提とするといいました。何か肯定的なものとして語られたことをもとにしてこそ、否定を書くことができるのだと。言い換えれば、シーニュとは探されるものなのです。相同の記号のように、つまり現実的なものにおける記号のように。」(Ornicar?, no.17, p.17)

 ここで、もう少しだけ話は具体的になってきています。サントーム、そしてシーニュ。そしてシーニュとは、何かを相同、つまり肯定し、同じものと認める機能を果たすもの、とされています。そのうえで、シニフィアンという、こちらは否定と不在とを担当する相方がやってくるわけですが。
 ですから、このune bevueは、ある意味では相同、つまり「同じ」という自体をもたらす、一種の単位のように機能しているといっても良いことになります。今の感覚だとわかりにくいですが、昔だと、その単位としての性格は「単位原器と相同」ってことですからね。とはいえ、じゃあその原器が必ずあるのか、ということになると、これがあやしくなってきます。


「実際、穴だらけで、一つ一つpiece a pieceやっていく以外すべてtoutというものはありません。考えるべき唯一のことは、このかけらの一つpieceが交換価値を持っているか否かということです。すべてtoutということに対しての唯一の定義、それはあらゆる流通過程において硬貨pieceが価値を持つということであり、これはすべてとして定義される流通過程とは、価値の均質性であるということのみを意味します。すべてとは価値の概念でしかありません。その範囲で価値を持つものであり、その範囲で別の、しかし同じ単位での価値を持つものです。我々はこうして、ゆっくりと、私がune-bevueと呼んだものの矛盾へと進んでいきます。une-bevueとは問題の単位というものには値しないにも関わらず、交換されているもののことです。」」(Ornicar?, no.12/3, p.10)

 この比喩は、フロイトが「制止・症状・不安」のなかで、症状を各通貨圏のあいだの交換(というか両替ですね)の不全、と捉えたことを思わせるものですし、おそらくはそれを念頭に置いていたことでしょう。ですから、それぞれのbevue、無意識たちは、それぞれがそれぞれの領域を持っている、そして、それぞれがそれぞれの交換単位としての通貨をもっている、という点では同じ、しかし使われている通貨は別、というモデルで成り立っていることになります。しかし、いずれにせよそれは貨幣経済です。

 当たり前のことでしょうか?でも、次回はこのあたりから、また考察をすすめていくことにしましょう。