愛の手紙

 昇華。この言葉、精神分析のなかでももっともポレミックなものです。しかしいちおう、この文章、前回に引きつづき、愛と壁と落書きとについて論じるべきものですから、長くなるのは困ります。ここではとりあえず一番簡便なバージョン、つまり、ラカンにならって、ハイデッガーの壺を援用しましょう。もっとも、ラカン先生は行きつけの店の芥子壺のネタにアレンジしていましたが。壺に意味があるとしたら、それは空洞、くぼみがあるから。でもその窪みは壺の粘土、窪みを取り囲むその象徴的なものがない限り生まれてくることさえなかったでしょう。昇華はこのように、意義のある空虚を世界にもたらす、という意味で、現実的なものと象徴的なものの交点、あるいは一挙にして同時的な誕生を意味するものです。あとは、その中に好きなだけ果物を詰め、絵を描き、詩を詠えばよろしい、というわけです。ですから、宮廷愛の話の中で、女性という枠の中の空虚、という言い方をしたのはちょっと不正確。女性という枠と、愛の在処たる空虚は一挙にして同時に生まれているものです。このような女性を生み出す宮廷愛を、ラカンが昇華の典型としても、それほどおかしなことはないでしょう。

 さて、それはいいとしてじゃあなんでお前は壁の落書きもといネブカドネザルの話から切りだしたのさ、ネタ?というご意見もありましょうから、急いで引用しましょう。


「愛と呼ばれるこの奇妙な跳躍の中で、よりよいものがあるとすると、それは文字、奇妙な形をとる文字なのです。・・・愛の手紙が我々のところに届いたとき、したがって、我々が何回か説明したように、手紙は常に宛先に届くのですが、幸いなことにそれはあまりに遅く届き、その上そもそもがそんなものは滅多にお目にかかれないしろものなのです。時間通りにつくこともありますが、デートの当てがはずれていないというのは非常に珍しいケースです。それが届いたケースは歴史上多くはありません。ネブカドネザルのケースのようなのは。」(1972.2.3)

 そう、ネブカドネザルさんのケース(旦那、実はその息子の話ですぜ、というデリダっぽいツッコミは遠慮するとして)は、めずらしくタイミングばっちりにお手紙ついた、しかもちゃんと読んだし食べたりしなかった、というところが希少例なのです。そう、ラカンは確かに手紙は必ず宛先に届く、と言いました。でも、ちゃんと届くとはいっていないのですね。

 でも、もう一つ。このお手紙、壁に書かれました。ラカンはいいます。わたくし、これを愛=壁の手紙lettre d'(a)murと書きました、と。(1974.1.8)

 恒例のオヤジギャグでしょ、といえばそれまでな気もしますが、ご本人によればそれはサンタンヌの若いお友達のネタだ、ということだそう。ともあれ、20年以上前の論文のネタ、愛と壁と、20年後に考えていた文字という問題が、ネブカドネザルの逸話に折り重なってきたのです。一応ネタを説明しておけば(馬鹿らしい限りですが)lettre d'amourといえば、普通に訳すとラブレター。日本語にすると愛の手紙。でも、lettreの意味には文字というのもありますから、愛の文字とも訳せなくはありません。このラブレター、セミネール第20巻の第七章の表題として知っていらっしゃる方も多いでしょう。

 では、なぜ文字なのでしょう。そして愛と文字なのでしょう。ラカンはこう言います。


反対に、皆さんを引き留め、あるいは行動させ、そして少しずつ動き出すもの、これは真に語ること(真の言)le dire vraiです。これは書かれたものとは全く別のものです。真の言とはいってみれば溝rainureのようなものです。この溝を通って、真の言は、不在を、つまり書かれたものの不可能性を、性的関係を書くことの不可能性を、埋め合わせに来る。こういう事態が起きねばならない、ということです。もし現実的なものが、私の言うように書かれたものによってのみ疎通されるものであるなら、これはまさに私が進めてきたことを正当化します。それは性的関係を書くことの不可能さがかつて作り出した穴、ここにこの性的関係をそれでも実現しようというときに、我々が還元されていく先があるということです。(1974.2.12)

 ここでは、書かれたもの、すなわち文字と語ることdire、真を語ることdire vrai、そして真の語りle dire vraiとが対置させられています。
 語ること、それは溝のようなものだ、とラカンはいいます。ここで、話はちょっとややこしくなります。穴と溝が区別されるからです。書かれたものによって、現実的なものが疎通される(この言葉、se frayer、ですが、ドイツ語のbahnenを介してフロイトの「科学的心理学草稿」につながっていると言うことは、セミネールの第七巻に詳しいですね)というのですから、なにか道が出来ていそうな気もする(文字通りアウトバーンとかのバーンですからね)のですが、々もそこは不在であり、穴である、ということに限定されています。このあたりの理由も、セミネール第七巻を読めばはっきりするのですが、話が逸れるので差し控えましょう。
 そして、真の言、le dire vraiとは、そこに溝から水が流れこんでくるように流れこみ、この不在、穴を埋め合わせるものだ、とされています。ある意味では、穴でしかなかったものが立派な水路に早変わりしたわけですから、この穴は再利用と同時に新発見でもある、ということになります。先ほどの昇華の論理で見た、象徴的なものと現実的なものの同時性の理屈、ここでも生きますね。
 では、それは壁の文字までどうつながるのでしょう。このちょっとあとの箇所を引用しましょう。


「・・・現実的なもの、それは性的関係はいかなる形によっても書かれ得ないということによって定義されるものです。そしてここから、真の言dire vraiとは何かということが帰結してきます。少なくとも、分析的ディスクールの実践によって示されるのは、この真の言のもとに、人は道を疎通させるということです。この道は全くの偶然、時には間違いで、書かれないことをやめる、というところにまで至る何かへと続く道です。私はそうやって偶然性を定義しました。つまり、二つの主体の間で、それは書かれうるもののような雰囲気を持った何かをうち立てるのです。ここから、私が示した愛=壁(a)murの手紙として示したことの重要性が生まれるのです。・・・分析的ディスクールはたんに真理の位置を保持するというだけではなく、性的関係ということに関して、この溝を流れ、埋めていくものを語るということを可能にするものでもあるのです。これは重要です、というのも、これは真の言dire vraiの意味を全く変えるからです。・・・なぜならいいましたように、一度とはいえこの溝は空ではなくなったからです。何かが流れたのです。」(1974.2.12)

 真の言によって、不可能性から偶然性へ。ラカン的なタームで言えば、書かれないことを止めないものから、書かれないことを止めるものへ。二つの主体の間に開いた穴、両性の性的関係の間に穿たれた穴、関係性の不在は、いまや偶然にもそこを流れた真の言によって、ただの穴ではなく溝であり、また溝であるという点で文字に似たものとして扱われます。rainureという語、溝とは言いますが、木や皮製品の模様として彫り込む溝のほうのニュアンスです、ということも付け加えておきましょう。
 そんなわけでラカンはこう言うのです。


書かれることをやめないもの、必然、それが不可能との出会いを必然のものとするでしょう。書かれないことをやめないもの、そして文字によってのみ近づけるものとしての不可能さ。・・・これが愛の手紙の意味です。これは書かれることをやめないものですが、それはその意味を保っていられる限りにおいてのことです。つまり長くは続かないのです。だからこそ現実的なものの機能が介入してきます。こうして愛はその起源においては偶然であったことが明らかにされ、同時に、現実的なものという観点からの真理の偶然性も証明されます。なぜならその様相は正当であり、また我々のエクリチュールの観点から定義できるのです。(1974.1.8)

 長くは続かない。まあ縁起でもない。つまり、現実的なものは、この儚い偶然、つかのま書かれないことを止めたものを、またしても書かれないことを止めないものに抹消していってしまいます。意味が失われていくのです。文字はこの不可能へのアプローチを唯一可能にするものとして位置づけられています。それはエクリチュールとしては、愛の偶然性、真理の偶然性、を証明するものだ、と。
 もちろん、エクリチュール自体がそうだといっているわけではありません。むしろ、その偶然が一度は起きてしまった、溝が空ではなくなった、何かが流れた、ということの印であり、痕跡なのです。

 でも、意味って?文字が意味を失う?どういうことでしょう。確かに、以前頭部にそれと気づかぬまま己の死刑宣告書を入れ墨され、かつ己がその宣告書のメッセンジャーとして旅に出る、という可哀想な奴隷の話をしたことがありますが、あれなどは意味が失われているように見えなくもありません。でも、ここでの意味はちょっと違う感じ。ラカン本人に言わせれば「真の言dire vraiとは躓くものです。何にでしょう。・・・この言は性的関係によって書き込まれうるものが現実的なものの中では欠如しているという穴に吸い込まれてしまうものです。」(1974.2.19)ということのようです。しかし、その崩壊のさまを描くよりは先ず、その成立、つまりつかの間何かが結ばれあう、ということのほうを見てみましょう。
 


それは二人のしゃべる主体が結びつきあうということからです。二つを作り出す、このことのためにシニフィアンがあるのです。つまりしゃべるのです。分析的ディスクールが示すのは、主体であり得るものの、何かの主体の代わりに、性的関係の主体の代わりに、その場所にシニフィアンがあり、それは私が先ほど真の言dire vraiの溝と呼んだものを流れるもの以外の何ものでもないということです。このためにS2が必要なのです。これは真の言とは何の関係も持ってはなりません。言い換えれば、S2は現実的なものなのです。・・・S2は無意識的なものとしての知ですが、これが真の言の溝を流れます。こういっても何の意味もありません。これはそれが現実的なものであるということです。それを知っているいかなる主体も存在しないような知がある、それは現実的なものにとどまる、ということです。これは澱であり、沈殿物であって、決して到達できない性的関係に近づこうとするたびに生み出されるものです。(1974.2.12)

 そう、ですから、まず必要なのは二つの、いえいえ二人の主体。その二つを作りだす必要がある、とラカンはいいます。どういうことでしょう?というのも、当たり前のことですが、二がなければ一はないから、です。ん?一個しかなくても一は一やん、というツッコミもありましょうが、何かが「繰り返し可能な」「反復可能な」「可算的な」単位であると認識されるには、やはり二つ目が必要です。その二つ目があって初めて、一個目は一個目としての意味を持ちます。
 ここで皮肉なのは、残念なことに、二者間の結びつきはこうして二者を隔てる壁ともなっている、ということです。そもそもがラカンがくだんの愛の壁の詩を引用したとき、ラカンがその壁として意識していたのはランガージュの壁、ということでした。今となってはそのラの字も出てきませんが、まるっきり関係ないというわけでもなさそうではあります。
 ここでも、われわれはラカンがかつて語っていたように、S1、つまり最初の1たち、一個目たちが好き勝手に語り合っているところを想像できないわけではありません。しかし、その偶然性、愛の偶然性であり真理の偶然性であるものは、エクリチュールとして、文字としてのS2によって必然へと移行すべく書き記されることで、その偶然性の記録は残されるにも関わらず、同時にその偶然性そのものは塞いでしまい、消去してしまうのです。ですが、その溝を塞ぐ沈殿物、それはかつてそこに水の流れがあった、ということの印でもあります。火星の運河、みたいな話ですね。その水の流れは、かつて決して到達できない性的関係へと近づこうとした、そのことを指します。

 ついでに言っておけば、この直前の箇所でラカンは、分析のディスクールをdecantageという風に語っている箇所もあります。ワイン用語(?)のデキャンタなんかと語幹と一緒ですね。もちろん、この言葉には「明確化」という意味が普通に使われているのですから、明確にする、というだけの普通の意味で捉えても良いのでしょうが、ここで澱、depotという言葉が使われているとなれば話は別。S2は澱であり、沈殿物であり、真の言の溝を流れる(あるいは沈む)のですが、それは真の言とは違うものです。
 ですから、ある意味では、先ほどちょっと筆が滑ってそう書いてしまったように、このS2の位置こそ文字の置かれるべき場所である、といってみたい誘惑に駆られるのですが、今のところちょっとそれを裏付けるべき箇所を見つけることは出来ませんでした。残念。

 では、その結びつきとなるべきもの、S1の位置に置かれるべきもの、最初の「仮定される偶然性」は、いったいなんなのでしょう。次回はそこから話をはじめましょう。