坊主憎けりゃ袈裟まで憎い


「子供における「所有すること」と「存在すること」について。子供は同一化、つまり「私は対象である」によって対象関係を表現することを好む。「所有している」はそのふたつの中ではより後であって、対象の喪失の後で、対象は「存在すること」に後戻りする。その例−乳房。<乳房は私の部分で、私は乳房です>、その後でのみ<私は乳房を持っています>、つまり<私は乳房ではありません>」(SE23, p.299)

 引用はフロイトの遺稿集FINDINGS, IDEAS, PROBLEMS (1941 [1938])から。1938年7月12日の記載です。

 さて、ラカンの書いたものの中でも、すっかり人口に膾炙した部分というのはございまして、一昔前でしたら鏡像段階とか、最近だと対象aとか、それなりの頻度でお目にかかることの出来る術語も増えてきました。でも、臨床系の人で案外好評なのは、「母の想像的ファルスであること(=存在)」から「象徴的ファルスを持つこと(=所有)」というモードのちがいとしてエディプスコンプレックスを理解する、というやりかた。あっちこっちで見るので、御託はわかったけどそれどういう意味よ?といい加減うんざりしている人も少なくないことでしょう。確かに、そのまま読むと、なんだか「ママのお気にいりの僕」から「社会に出て能力を獲得習得して、んでもってママのような女性と結婚する」、みたいな話で語られすぎているように思えなくもありません。

 しかしまあ、フロイトせんせいがつねづね愚痴っていたように、思想というのは一部だけつまみ食いしてもあんまり意味がなくて、それが体系全体で持つ意味をも十分に受け入れて理解しなくてはいけない、というのは、まことにその通り。で、今回は、このへんの理解を全体的な視野のなかに位置づける助けとなってくれそうな著作、マテ-ブランコの「無意識の思考」を取り上げましょう。

 マテ-ブランコさんはチリの人。1908-1995、という生没年が巻末の解説に記されています。南米精神分析会の大物でしたが、1966年からはローマに移住して、二度と帰らなかったとか。解説には書かれていませんが、この時期のチリの政変の連続がどのような影響を及ぼしているかはちょっと興味深いところです。10年以上前から今は亡き「イマーゴ」ほかいくつかの媒体でちょこちょこっと彼の著作の部分訳は出ており、そのころから翻訳刊行の声を聞かないでもありませんでしたが、最近だと中沢新一対称性人類学」のなかで紹介されたことで、あるいはだいぶ知名度が上がったのではないかとも思います。翻訳もその意味ではとてもいいタイミングで、良い紹介者を得て発売されてラッキーというところでしょう。

 さて、そうはいっても、マテ-ブランコが依拠する無限についての数学的知識を正確に評価する能力は、私にはありませんので(といってもそれほど難しい知識が利用されているということもない気もしないでもありませんがそのへんも定かではないので留保)やはりフロイトラカンを理解する上で助けになりそうな、あるいは大いに示唆を得た箇所を中心に、全体像の紹介と言うよりその箇所限定という感じでいくつか抜き書きしてみましょう。

 そんなわけで、さて、冒頭の箇所。ラカンの「存在→所有」の元ネタになったところでもあります。マテ-ブランコはここをこのように論じます。

 所有すること、は非均質モード。非対称モード。不可分モード。いろいろな言われかたをしますが言いたいことは一緒。
 存在すること、すなわち「私は乳房です。これは均質モード。対称モード。可分モード。

 さて、なんのことでしょう。マテ-ブランコによれば、患者の言葉の論理には、二つのモードが共存している。一方は二価論理に従う古典論理的な推論。もう一方は対称論理。この二重論理的推論が特徴なのだ、と。

 では、対称論理、これなんでしょう?まずは身近な例から上げましょう。私があの人を嫌い、なら、きっとあいつも私が嫌いに違いない。感情的には実に理解できる話ですが、論理的とは言えません。あるいは、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」これも、袈裟という坊主の一部分に過ぎないところと坊主という全体性がごっちゃになっているわけですから、論理的とは言えません。
 みなさんもご存じのように、この種の非論理的な理屈がどれだけ豊かに息づいているかについて描写させたら、メラニー・クラインを措いてほかに人はいない、というくらいクラインおばさまはこの種の理屈が得意中の得意でした。それだけに、マテ-ブランコがクラインのセミナーの参加者であり、大きな影響を受けたというのも、とてもよく分かります。そして、マテ-ブランコはこの、私が先ほど軽率にも「非論理的な理屈」と呼んだ論理を、無限集合の論理を用いることで一貫したものに出来るのではないかと考えたのです。そして、その考察を通じて、フロイトのいう無意識の無時間性、矛盾の共存、圧縮、置き換えといったメカニズムを、一つの論理構造から説明できるのではないか、と考えたのでした。

 さて、マテ-ブランコがそのために依拠したのは、数学的無限。本書で言うp.78からの箇所です。単純に言うと、整数の集合は無限集合。でも、偶数の集合も無限集合。奇数の集合も無限集合。だからといって、整数の集合が偶数の集合の二倍大きいということにはなりません。奇数でも同じ。部分は全体に等しいのです。
 さらにもう一つ。じゃあ、無限×1も無限×2も一緒なら、1=2なの?そうはなりません。なぜなら、無限で約分してはいけないからです。なぜだめなのさ、というのがマテ-ブランコのご意見で、かれはここから、無限集合においては「個々の数は今や任意の他の数や数の全てと、つまり集合と等価であると結論づけられる」(p.81)といいます。このへん、どうなんでしょうか。

 とはいえ、この理屈を持ってくることで、特に統合失調症圏の患者さんのはなしや、夢のロジックが理解しやすくなった、とは言わずともとりあえず一貫した論理で説明できるようになった、とは言えるかもしれません。マテ-ブランコはそれを、対称論理、と呼びます。かれのまとめでは、部分と全体との同一性、そして部分と全体の両者が持っている全ての属性の同一性、ということになります。残念ながら無限集合の論理の厳密な考察に基づいた無意識の論理構造の解明と言うより、とりあえずこの二つのネタでいろんなこと切ってみました、という印象の方が強い、といえば強い気もしますが、ともかく、この二つから、フロイトラカンのいったことの色々な断片をより関連づけて理解できるようになる箇所があるのであれば、私としてはそれはそれで十分なので、そういう箇所を探してみましょう。

 冒頭にあげた箇所も、まずその一つです。乳房は私の部分です、と、乳房は私です。この二つ、対称論理の中では、当然のこと。部分と全体は一緒ですから。そして、所有の論理(乳房を持っています)は、ここから非対称論理への移行、とされています。
 で、その話なにがそんなにおもしろいの、といえば、これ、隠喩と換喩というラカンの問題設定とちゃんとつながるからです。ご存じのように、換喩は部分で全体を表現させます。「30枚の帆が海を駆け」といえば、30隻の帆船を意味しますからね。ご存じのように、母のファルスであること、というのは、母の欲望の換喩であること、という風に理解されています。このあたり、セミネール第四巻第十四章第二節の後半あたりを参照して頂ければいいのですが、「この子はファルスに対する母の欲望の換喩として捉えることができますが、彼が換喩であるのはファルスを持っている者という限りにおいてではなく、逆に彼は全体として換喩なのです。」というあたりは、この部分と全体との同一性をよく物語っています。つまり、換喩的な対象としての母の(欲望の)対象との同一化、という問題は、このような部分性と全体性の区別の拒否として捉えられねばならず、母子未分化という神話もその論理として把握されねばならない、ということです。

 このことは、男根期の理解に大いに役立ちます。男根期は、子供が誰しもが自分のように作られているわけではないことを発見する時期だ、とマテ-ブランコはいいます。少年が女性を見て去勢されてしまったと確信する、という、このある種不合理な信念(ついでにいうとそんな不合理さをテーゼとして持っているから精神分析は不合理だといわれるのですが)、これは、二重論理的な思考では、「他者は自分自身のように作られている」さらに「他者は自分自身である」になり、「他者がペニスを持たないなら、自分も去勢されている」という論理につながります。さらに潜ればそれは「他者は存在しない」でありついで「自己が存在する」というところまで、たどり着くことになろうとマテ-ブランコは言います。身体の部位と全体としての自己を区分することがない、という論理一つから、ここまで演算を展開するある種の力業は、マテ-ブランコの魅力の一つでもある、かもしれせん。ちょっとリスキーですが。
 しかし、ここで、父ないしは去勢という問題を、対称論理の禁止と、非対称論理の導入として捉えることが可能になります。このメリットは忘れるべきではないことでしょう。

 以上、とりあえずポイントを一点に絞って、マテ-ブランコの著作についてコメントしてみました。もちろん、この著書の豊かさは、中沢新一のようにそれをさまざまに応用、援用して問題を解決していくことを可能にすることでしょうし、そうした観点から観ると、たったこれだけ?という感もなくもないコメントですが、こういうともすると茫漠としかねない論理は、できるだけポイントを絞って、それも業種、というか出自の近い文脈から使ってみた方がいいなあ、というのが個人的見解。

 さて、ちなみに、マテ-ブランコはこんなことを書いています。


≪投影同一化≫に結びつけられている葛藤と不安は、私の意見では、自分自身の(非対称的な)同一性を喪失し、不可分性へと「吸い上げられる」破滅として体験される恐怖と関係づけられている。これは、対照的な体験を、非対称的な概念の見地から表現したものである。

ちなみにラカンはこんなことも言っています。


「欲望の換喩的な対象、主体はそこで消え去ってしまうのですが、この対象が隠喩的に明らかにされたとき、それを我々が主体と置き換えたとき、・・・斜線を引かれたSを我々は明らかにし、主体のシニフィアンに、その名前を与えるのです。」1962.1.24

 いずれはこんなへんも関連づけて論じられるようになれば、とは思いますが、それはまたちょっと先の話になりそうです。これにプラスして、あとは「内的空間と外界」という考え方に対するマテ-ブランコの疑念と再構成を、精神分析的な、特にクライン的な文脈との流れで再構成すること、なども良いテーマになるでしょう。このへんもまた先送り。年の瀬だというのに何もかも先送りで良いのだろうか・・・と微妙に反省しつつ。。。