驚き桃の木山椒の木

 先だって音声・画像認識の研究者さんとお話をしていたときのこと、こう聞かれました。びっくりする、恐怖、不安というのはどういうことさ、と。

 確かに難しい問題です。さしあたり、感情という要素が入ってしまうと問題がややこしくなるので、問題を絞ろう、といいながら、さてどうしたものかと考えていました。結局先方にとって使いやすいように問題をアレンジして提示することはできなかったのですが、そうねえ、結局「あり得ない」ということ、不可能という様相をどう定義するかの問題とこれ、密接に関わっているのではないかしら、とこっそり勝手に考えていました。このへんはラカンの研究者(自称)として、前から何回か、シェリングだったりクザーヌスだったりを通じてラカン的な不可能の概念の参考になる箇所はないかしら、と無駄にあがいている文章をお読み頂いたかたはお察しくださるかもしれません。

 12月に相次いで翻訳の出た、アラン・バディウの『聖パウロ』、そしてデリダの『死を与える』。この二冊、ある意味では似たところを扱っています。バディウの『聖パウロ』のほうは文字通りパウロを扱っているわけですが、バディウも指摘しているように、パウロはモーゼよりはアブラハムに親近感を持っていました。逆にデリダの『死を与える』はアブラハムを扱っていますが、そこでは何回かパウロが、ときにはデリダが直接、ときにはデリダの援用するキルケゴールを通じて、参照されています。デリダのほうは99年、バディウは97年の原著ですが、デリダの元ネタの講演それじたいは92年。まあどっちが先でもいいのですが、良く似た抹香臭いテーマが奇しくも同じ時期に日本で翻訳刊行されるというのは、なんだか奇妙な感じです。

 平たく言ってしまえば、テーマは主体。それも、キリスト教的な主体を普遍的な主体と見なしてしまおうぜ、という、壮大な試みです。バディウのほうははっきりと。デリダの方は若干の微妙さを孕みながら。そして、その普遍性の基礎、ないしは基礎となる論理=事件(妙な言い方ですが)をどこに見出すか、で、両者がたどり着いたのがそれぞれアブラハムパウロ。なにやらイヤな感じ。普遍的特異性、といったところで、それが何なのだろう、という気もしなくもありません。しかしまあ、何事も食わず嫌いは良くないことです。まずはバディウの方から見ていくことにしましょう。

 パウロ。そう、道の真ん中で回心しちゃったひと。いちおう、AD10?-65/7、というあの人です。個人的には、この回心というはなし、不可能という問題ととても関係があるように思っているのですが、さしあたりそれは措きましょう。

 バディウのプログラムは明快です。共同体主義の否定、ないしはそこから「真理を引き去ること」(14)そしてそのためにパウロ。なぜパウロなのでしょう。それはバディウにとってのパウロが、「パウロにとっての課題は、いかなる法が、その同一性をことごとく剥ぎとられた主体、その唯一の「証拠-試練」がまさに或る一つの主体によってその出来を宣言されることにある或る一つの出来事に吊り下げられた主体を構造化できるのかに説明を与えることであった」(14)がゆえに、決定的なリファレンスとなる存在だったからでしょう。それはあるいは「普遍的特異性を支える条件とは何か」(26)という問いに置き換えられるものとしてもいいでしょうか。この「出来を宣言される」「或る一つの出来事」それは、パウロのケースではキリストの復活という出来事であったことは言うまでもないでしょう。(関西のおじちゃんおばちゃんならここで絶対に「見たんか?」と突っ込むところですが、そこは聞かないでおきましょう。)

 こうして、バディウパウロの足取りをこうまとめます。


「もし或る一つの出来事があったとすれば、またこの出来事の生起を宣言し、次いでこの宣言に忠実であることに真理があるとすれば、そこからは二つの帰結が導き出される、と。すなわち、まず第一に、真理は出来事的evenmentielであるか、あるいは出来するものの秩序に属しており、このとき真理は特異である。・・・/第二に、真理は、本質的に主体的な宣言にもとづいて刻み込まれるものである以上、予め構成されたいかなる部分集合も真理を支えることができず、共同体主義的あるいは歴史的打ち樹てられたいかなるものもみずからの実質を真理の過程に提供することができない。・・・いかなる同一性も構築することはない。真理は万人に贈られあるいは宛てられており、何らかの帰属条件がこの贈与あるいは命運に制約を加える可能性はない。」(28)

 解釈しましょう。まず、出来事があるだけではいけません。それを、その生起を「宣言する」ことが必要です。そして真理とはその宣言に忠実であることでしかありません。とするなら、真理とはある出来事、特異な出来事を必要とします。しかしそれ自体が真理ではありません。それを宣言することと、その宣言に忠実であることが真理です。つまり、真理には主体が、主体の宣言が、必要なのです。(逆に、このすぐあとで見るように、その宣言以前に主体が存するのかどうかが問われてもいいでしょう。)そのことで、バディウ共同体主義、歴史主義的な実体を真理の基礎として置くことを拒否することになります。

 さて、そういうわけで、バディウはそこからパウロが採る戦術的な立場をこうまとめます(28-30)。


一、キリスト教的な主体はかれが宣言する出来事(復活)に先住しない。
二、真理はまったく主体的であり、出来事の関係で生まれる信念にたいする宣誓を表明する宣言の秩序に属する。真理が法の下へ生成するということではない。
三、宣言への忠実が決定的に重要であり、それは宣言する点で主体に名を与えること(信仰、確信)その確信の宛先に措いて主体に名を与えること(愛)真理の過程の過不足なさから与えられる力に則して名を与えること(希望、確証)の三つの概念からなる。
四、真理それ自体は状況の状態に無差別無関心である(28-30)

 そんなわけで、この「宣言」という言説のあり方に、独自なものを見ることが出来ます。それをバディウ使徒の言説、という風に述べています。
 使徒の言説、それは出来事によって開かれる可能性への純粋な忠実なのだ、とバディウは述べます。「それ自身が出来事的な恩寵に拠る未聞の可能性を宣言する使徒は、厳密に言って、何も知らない。主体のさまざまな可能性が問われるとき、自分が知っていると想像することはひとつの欺瞞なのだ」(82)

 対照的に、ユダヤの言説、ギリシアの言説というものがあったとしましょう。
 パウロはそれをこうまとめます。ユダヤの言説は記号の言説(預言者が記号の解読によって超越的なものを証明する)であり、例外、自然の全体性の彼方としての超越を指すもの。ギリシャの言説は賢者により自然の全体性の理の中に主体を配置するコスモスが明らかにされること。(74-5)
 パウロによれば、この二つは主が有する同一の形象の二つの面である、と。つまり、ユダヤの言説はギリシャ的コスモスの全体性にとってのみ有効である。したがって第一にこの両者はそれぞれの存続を前提としているがゆえに普遍ではあり得ず、第二に救済の鍵が普遍に措いてわれわれに与えられるという前提に立っていることになります。(76)ラカニアンならここで男性の性別化におけるファルスの論理を思いだしてもいいでしょう。では、キリスト教的な出来事の論理は女性の性別化の論理に位置づけられるのか、という問題は、ちょっとまた先にとっておかねばなりませんが。

 では次回は、この三つの言説からバディウが取り出してきた「父と息子」という議論について見ていくことで、超越性から普遍的特異性という彼の問題の進展を見ていきましょう。