驚き桃の木山椒の木(2)

 さて、前回は、バディウ『聖パウロ』から、ギリシア的、ユダヤ的、そして使徒的言説についてのところまで確認していったわけでした。そして、ギリシアユダヤの相補性についてを。

 しかし、なにはともあれ、全体と例外は相補的、という主張は、それほど目新しいものではありません。バディウのいいところは、ここに一ひねり入れてきたところ。父の言説、息子の言説、という問題の建て方がそれです。ギリシャユダヤが共に父についての言説であるのにたいし、パウロは息子の、息子についての言説として、自らをそれぞれの特殊から切り離し、普遍的なことの僥倖を享受するのだ、と。(77)パウロにとって息子という審級の出現はキリスト教の言説の絶対的な新しさを確信させるものであり、息子を遣わすことで、時代は超越的評価によって支配されるのではなく、ニーチェの言うように「二つに割れる」(78)とバディウは解説します。

 では、この息子、とは何でしょう。バディウは言います。法を免れているということにおいてのみ人はリアルに一人の息子に生成するが、しかし出来事は普遍的な息子に生成することをもたらさなければ、捏造されたものである(89)、と。バディウはここでは語りませんが、では、神にとって息子の生成とは神による(バディウ的な意味での)宣言なのか?という疑問が生じてきます。この問題、また次に見るデリダにはどこかで意識されているように思われますが、バディウ的なプログラムの中ではどうでしょうか。さしあたり、このキリストの遣わし、それは「パウロにとって、秩序的全体性を剪断し挫かせるキリストという出来事は、まさにさまざまな場の無意味を指し示すことにほかならない。」(103)ものであるとバディウは述べます。そして、この無意味の出来事は、父たる神にその父としての超越的審級を断念させ、息子の普遍性あるいは息子という出来事(息子にまつわるエトセトラな出来事、というべきでしょうか)によって、全ての人間に差し向けられる普遍的な状況を作りだすことになります。あるいは贈ることになります。


キリストの死によって、神はその超越的分離を断念し、親子関係によって切り離されなくなり、分割された人間主体の構成的次元を分有することになった。そうすることで神は、出来事ではなく、私のいわゆる出来事的な場を創造する。出来事的な場とは、出来事そのものの構成に与り、ほかならぬこの特異な状況にみずからを差し向け、或る一つの状況に内在する、与件である。死とは、死からまったく導き出されない)復活が人びとに、その主体的な状況に差し向けられていたことになるであろうことを惹き起こすという点で、出来事的な場の構築なのである。(126)

 こうして、一神教における<一>は、万人にとって、例外なく、を意味するものになります。あるいは、それが宛てられているさまざまな主体にいかなる差異も刻み込まないもの。(137)パウロの恩寵という概念を<一>との関係で言えば、真理が出来事的に出現するということは、それが数の外にあるということを意味することになります。それが恩寵です。「恩寵は、返済されるべき負債なく出来するものである限りで、法の反対物である。・・・或る一つの主体に根拠を与えるものは主体に支払われるべき負債ではあり得ない。なぜなら、この根拠は根源的偶発性において宣言されるものに結びついているからだ。」(138)そしてもしかして、ギリシアユダヤキリスト教においてそれぞれにこうした『現実的なもの』が存しているのだとしたら、あるいはそれは、

自らの場に到来ないし回帰するもの(ギリシャ的)
非時間的な法としての石板に文字化されたもの(ユダヤ的)
純粋な出来事、純粋な過剰、としての恩寵(キリスト教)

という風に、ちょこっとバディウをアレンジして言うこともできるかもしれません。(104)しかし、ラカニアンとしてはいずれにせよ「リアルなものをめぐる三つの言説」なのではなかろうか、という誘惑を禁じ得ないところではあります。個人的には、この三つの性格はラカンの現実的なものの定義に全て含まれていることは確実だと思いますし、そうするとそれぞれが明確に「切れて」いるものだろうか、という点については疑問があります。このあたりは、次に読んでみる「パトチュカを読むデリダ」にも聞いてみたいところです。まあ、パトチュカの場合はダイモーン的な、狂騒的な秘儀、プラトン主義、キリスト教の三本立てなわけですが。

 ちょっとだけ先回りして、簡単に触れておくと、もちろん、パトチュカは別に「現実的なもの」という言い方はしませんから、それを解釈するデリダに倣って言えば、問題になるのは「クリプトないし秘儀的系譜学」。この位相の変化、といってもいいでしょう。では、バディウにとってはそこはどうなるのでしょうか。
 バディウはこう述べています。ギリシャユダヤキリスト教にくわえて第四の言説:讃美についての主体的言説を付け加えても良いかもしれないと。


「これは言い表せぬものの言説であり、非言説の言説である。それは、「言い難き言dires indicibles」と訳した方が適切であろう、奇跡を授けられし主体によってのみ経験される「言い表せない言葉」に棲まわれている、神秘的で沈黙の裡にある、内密さとしての主体である。だが、使徒をふたたび断ち割る主体の四番目の形象は宣言に入ってはならない。・・・第四の言説は宛先をもたぬままに留まらねばならない。この言説は、すなわち、宣教の領野に入っていく術を知らない、ということだ。・・・パウロにとって第四の言説は、《他者》の分け前を主体に囲い入れる、無言の代補であるがままに留まるだろう。宛先をもつ言説、宣言と信仰の言説が、その実質が言い難き言であるところの宛先をもたぬ言説を以てみずからの論拠となすこと、それをパウロは拒絶する。」(95)

 デリダのテーマは、この「内密さとしての主体」という問題になります。バディウせんせいは、そう、さしあたりそこは保留なのか、あるいは拒絶なのか、それはまた、別のはなし。

 さしあたり、問題なのは、ではこの出来事、仮に万人に普遍的に開かれているものだとしても、しかし、その出来事との出会いが偶然的なものである限り、普遍の可能性ではあっても普遍ではない、ということにならないか、そして、その出会いはではなぜ起こりうると言えるのか、それこそが、キリストの受難と復活という(あるいはその神話という)歴史的な出来事の存在に依拠した、むしろ歴史性という概念そのものの端緒にあるものなのではないか。そうした問いが持ち上がってきます。仮に「さまざまな差異は、恩寵としてみずからに出来する普遍的なことをその裡に保持するということである。また逆に、さまざまな差異の裡に、普遍的なことからそれらの差異へと到来するものを保持するこれらの差異の受容力を認めることによってのみ、普遍的であることそのものがみずからの現実性を証明するのである」(190)と、バディウが述べているにしてもです。
 バディウに、ではなぜその出来事が可能だったのか、という問いは、ラカン風に言えばありうべからざることが(不可能なことが)起こるというのはどういうことなのか、という問いはあまり見られません。もちろん、バディウには『存在と出来事』という大著があり、そこではあるいはきちんとした議論が為されているのかもしれません。そういう複雑な議論を要することは、別著作で頭からまるまる繰り返す義理はない、といえば、まさにそのとおり。

 ま、つまりは・・・買ったけど読んでない、だってエクリなみに厚いんだもの、という、私の側の弁護の余地のない手落ちがあるから何とも言えない言う権利はない、というのがぶっちゃけたところ。

 しかし、ともあれ、この件でのバディウの立場はこのように述べられています。


「しかし、もしすべてが出来事に懸かっているとすれば、待機せねばならないのだろうか?無論そうではない。多くの出来事が、たとえそれが遙か彼方の出来事ではあっても、それらの出来事に忠実であることをわれわれに要求している。思考は待機しない。思考は、死の道にほかならない順応への深い欲望に屈しない限り、決してその力の貯えを枯渇させることはなかった。」(197)
「それだけではない。待機することは無駄である。なぜなら、出来事の本質は、いかなる記号もそれに先立っていないこと、また、われわれがどれほどそれに注意を怠らずにいようとも、われわれをその恩寵を以て驚愕させることにあるからである。」(197)

 この姿勢、たとえばジジェクはそこに、ラカン的な意味での『行為』acteという概念との近親性を見ていることは、かれがそこここで書いています。そして、それが実際の運動の中で持ちうる性格についても。
 しかし、残念ながらその点についてはわたくしがしっかりコメントできることでは、いまのところありません。むしろ、この『リアルなもののアスペクト』あるいは「内密さとしての主体」というあたりをキーにして、デリダがどうこの良く似た主題に切り込んでいたのかを考えてみたいと思います。