こまわりくん


責任ある生は、何ものか贈与として考えられている。結局のところ贈与とは、<善>としての性格を持ちながらも、人間が永遠に従属している到達不可能なものの諸特徴を−すなわち秘儀の諸特徴をも示すようなものなのである。この秘儀が最後の言葉を握る。(パトチュカ)

 『死を与える』。新年早々縁起でもない題名です。原題は"donner la mort"ですから、まあ要するに殺す、ってことなのですが。漢語でも「賜死」という言葉はありますね。この場合は自殺しなさいね、って意味ですが。
 デリダの題名も、死を与える、という語感そのものではちょっと意味がとりづらいかもしれません。テーマは、アブラハムが息子を殺そうとしたdonner la mort a son filsか、あるいは神がアブラハムの息子に賜死した、という事件であり、他方、これが贈与論をテーマにした学会の講演でもあったと知っておくとすっきりするかもしれません。

 とはいえ、話はパトチュカ(Jan Patocka)の"Essais heretiques sur la philosophie de l'histoire"の考察から始まります。『歴史哲学の異教的試論』というところでしょうか。リクールの序文つき。ヤコブソンによる著者紹介つき。リッチです。翻訳者の廣瀬先生のあとがきによると、このフッサールのお弟子さんのチェコ現象学者、90年代にパリの現象学者のあいだでは結構なブームであったということだそうです。残念ながらわたくしはちっとも存じ上げず、原著もいま手元に届いたばかり、というおさむい状況です。。。そんなわけで、冒頭のパトチュカの引用もページ数なしで恐縮です。
 ですから、パトチュカに関する記述については、デリダに全面的に追従するしかないという状況で書いている、という前提はご了承ください。

 さて、このパトチュカの論考は非常に興味深いものです。(というか、良く似た構想でまとまったものを書いたことがあるだけに辛い。。。)パトチュカの言うところの「ダイモーン的な秘儀」からプラトン主義、そしてキリスト教への移行という過程の中で、責任という概念がどう変化していったか。あるいは主体が責任とどうか変わっていくことになったのか。それが、宗教という言葉で語られます。
 ダイモーン的なものからの断絶としての宗教へ。パトチュカにとっては、ダイモーン的なものは根源的には無責任であり、非-責任と定義されるものです。責任の主体はそれを服従させることができた主体であり、同時にまったく別の、みずからは見られることなく主体を見ている無限者に対して自分を自由に従属させるものでもあります。つまり、パトチュカにとっては、宗教は責任への移行においてしか意味を持たないのです。(10-13)
 しかし、ではこの『責任の主体』という見方から、近代的な意味でのヨーロッパの誕生を解釈すると、どうなるのでしょう。とりわけ、それはなぜ「自分の歴史を知らないこと、責任を引き受けないこと、すなわち責任の歴史としてみずからの歴史の記憶を引き受けないこと」(15)に苦しむのでしょうか。

 パトチュカがここで示唆するのはこういうことです。歴史性は秘密に留まる。歴史的な人間は歴史性を公然と認めようとしない。(16)

 この抵抗は二つの動機によって説明されます。一方で、経験の本質とはみずからの歴史的条件から身を引き離すことにあり、歴史性がこの本質に手を触れるべきではないから。(17)他方で、歴史性は永遠に未解決な問題として開かれたままでなくてはならず、それが解決された瞬間に全体化する囲い込みによって歴史の終焉が確定してしまうから。(18)


「歴史は決定可能な対象にも、支配可能な全体性にもなりえない。なぜなら、歴史は責任と信と贈与に結びついているからだ。それが責任に結びついているのは、絶対的な決断においてである。絶対的な決断は、知や与えられた規範との連続性を持たずに、決定不可能なものの試練そのものにおいてなされる。歴史が宗教的な信仰に結びついているのは、ある形式の契約や他者との関係を通してである。この契約や他者との関係は、絶対的な危険を通して、知や確実性の彼方へと向かう。また歴史は贈与にも、そして死の贈与にも結びついている。死の贈与は、私を他者の超越との関係、自己をかえりみない善性としての神との関係のうちに置く。」(18-19)

 さて、ここで死の贈与、という言葉が出現し、デリダはそこを手がかりに、今度はさらにみずからのアブラハム論へと移行して議論を進めるわけですが、そこまではちょっと飛びすぎ。まずはパトチュカの立場をもう少し追いましょう。
 パトチュカにとっては、ですから、ダイモーン的な秘儀、プラトン的、キリスト教的という、三つの様相、二つの移行ないし転回があるわけです。
 プラトン主義の場合、それが従属させる狂騒的な秘儀をみずからのうちに保持していることは体内化と呼ばれます。キリスト教の場合にそうしたプラトン主義的な秘儀を押さえ込んだり保持したりすることは抑圧と呼ばれます。どちらも、当然のことながら精神分析的なタームなのですが、思想史的にパトチュカがどこまでそこにコミットしていたかは判りません。
 さしあたり大事なのは、この移行ないし転回はかつてのものを廃棄しない、ということです。デリダはそれを、あたかも喪を執り行うことであるかのように、と補足します。(25)そして、この狂騒的な秘儀、プラトン主義的な秘儀、キリスト教的秘儀の三つの秘儀と二つの転回の関係、デリダはそこにおいて問題となることを「与えられた死」と言うのです。(27)

 さて、ここでこの移行は、いわゆる「内面化」の進行と捉えることもできます。内面化とは何でしょう。「内面化とは、体内化という運動そのものにおける個人化や主体化、すなわち自己自身に沈潜する魂の自己関係のことにほかならない。」(30)

 この移行が二回あるわけですから、この内面化の進展も二回あります。

 まず、ダイモーン的な秘儀からプラトン的な移行における内面化の進展を、デリダパトチュカを補足しながらこう述べます。プラトンの『パイドン』に先駆があることをハイデッガーパトチュカも明確に述べていない、とデリダはまず指摘します。そこで描かれている(80E)のは一種の主体化的な内面化であり、自己に沈潜して自己自身を想起し、一カ所に集めることで自己を保持することです。この運動は意識を、そして表象的な自己意識をも予告します。(33)
 そして大事なのはここ。魂は自己自身を想起することで自己を分離し、個体化し内面化し、みずからの不可視性そのものとなる。(36)このことです。つまり、内側に入り込んでしまった魂は、肝心の自分自身からも見えなくなってしまうのです。

 ついで、プラトン的なものからキリスト教へ。キリスト教におけるおののかせる秘儀mysterium tremendum、キリスト教的人間の恐怖、おそれやおののきについてがここでは鍵となります。これは人間が人格personaになるときに捉えられるもので、神の視線によって身をすくまされるときに捉えられるものです。外面性から内面性への移行、到達可能から不可能への移行がプラトン主義からキリスト教への移行を保証するのだ、と。(20)

 では次回は、このパトチュカのプログラムがデリダにとってどういうもので、そこから何を転回させたかったのか、そこを中心に話を続けていきましょう。