へんじがない、ただのしかばねのようだ

 さて、デリダの解釈するパトチュカと限定してのはなしですが、ここではこの内面性、不可視性について、ダイモーン的からプラトン的な移行に関しては詳細であり、かつプラトン的からキリスト教的への移行においてはやや手薄です。そこを補う形でアブラハムを論じていく、ということが、デリダのテーマになります。
 パトチュカの側からすればそれには理由があります。パトチュカの試論のタイトルは『技術文明は凋落した文明なのか』。ですから、問題設定がそもそもそこにおかれているのです。当然答えは明快に見えます。非本来的なものへの転落は、狂騒的なものやダイモーン的なものの回帰と助長である。これは責任ある自己という特異性を平板化する、役割の個人主義であって人格の個人主義でないものに基づいている、と(75-6)。そして、キリスト教的であるべき、つまりは責任の主体であるべきわれわれの中に、このダイモーン的な狂騒は脈々と残存し、体内化されていて、それが復活するのだと。
 ここで、責任の秘密とは、ダイモーン的なものの秘密を秘密のままにしておくこと、つまり絶対的な無責任と無意識という核をみずからのうちに抱え込むことにあるのだろう、ということになります。パトチュカはそれを『狂騒的な無責任』と呼んでいるのです。(46)

 そして、パトチュカのプログラムは、ハイデッガーの対抗馬とでも言うべきスタイルをとることになります。ハイデッガーが呼び声Rufを根源的に責めを負っている存在Schuldigseinである現存在の根源的な現象として捉え、神学的な観点を超え出たことに対する逆行なのです。(69)ハイデッガーの声はすべての同一化を逃れる無規定なものであるが、他方で秘密や神秘的な声ということにはならない。(70)しかし、パトチュカはここに思い切ってキリスト教的な伝統を置いてみようとするのです。ハイデッガーに反して。

 ですから、デリダのまとめに従いつつこちらでちょっとだけ手を加えると、パトチュカの「クリプトないし秘儀的系譜学の政治的次元」はこのようなかたちにまとめられます。

一、秘儀が破壊されることはない、歴史はそれが隠しているものを決して抹消しないという公理。だからこそこの系譜は一つのエコノミーなのである。(48)
二、パトチュカハイデッガーと逆行し、それをふたたびキリスト教の文脈で解釈し直している。(51)
三、この異教性はキリスト教の中のプラトン主義の存続の告発と関連する。つまり、キリスト教において思考されていないものを見極める試みと(54)
四、それはキリスト教的になると同時に、ギリシア的でも、ギリシア=プラトン的でも、ローマ的でもない新たなヨーロッパの要請である(64)

 ここからのデリダの議論の移行は必ずしもなめらかなものではありません。そこでは、死をめぐるハイデッガーレヴィナスの論争、アブラハムを考察するキルケゴールなどが、やや散漫に並びます。しかし、議論全体の流れから強引に形式化すれば、先ほど見たような「キリスト教におけるおののかせる秘儀mysterium tremendum、キリスト教的人間の恐怖、神の視線によって身をすくまされる経験」の本質、この二度目の移行の本質を、プラトンが『パイドン』で一度目の移行についておこなったのと同じように、論じていくことにあると言えましょう。


他者は私の内を、私の内のもっとも深い秘密の部分を見るというのに、私はそこに何も見ず、私の内に秘密を見ることができないということ、それはどのようにして可能なのだろうか。・・・そうした他者にのみ委ねられたものとしての私の秘密とは、私がけっして反省することのないような秘密、私が生きることも、知ることも、私のものとして再び所有することもないような秘密のことであるとするならば、それが「私の」秘密、「私の秘密」などと言うことに、何の意味があるのだろう。(188)

 したがって、そこでは「みずからの不可視性」そのものは、プラトン的な時代と変わるところはありません。ですが、それはもはや「みずからの」という言葉を冠することもできないもの。他者によってもっとも深いところまで見られているのに、私はそれを見ることができないものです。ここにキリスト教お家芸の(?)おののきを見て取るのだとしたら、それはいったいどういうことなのでしょう。

 で、アブラハム。そう、フロイトのお弟子さんのカール・アブラハムではなく、アメリカ大統領のリンカーンのほうでもなく、聖書のアブラハム。ある日マッドな神様が「あんたんとこの息子を殺して生け贄にしてね。いや、意味は特にないけど。あ、そうそう、このこと内緒よ。」と、とんちきにも程がある要求をしてきたのを、黙って従った、あのアブラハムです。結局の所、神様が土壇場でストップをかけてくれたので、可愛い息子を殺さずに済んだわけですが。

 そこで問題になるのは、アブラハムの犠牲が、超-倫理的なものであるということです。アブラハムは、まわりに対して弁明の余地のないような行為(息子殺し)を行うという点で共同体の倫理に背いているというだけでなく、そのことについて弁明そのものをしてはならない(黙っときや、と神様は言ってましたし)、そのうえ弁明できるものかどうかを問うことさえできない(なんで息子殺さなあきませんの、と言うことさえできないのですから)という意味で、三重に縛られています。デリダのコメントを見ましょう。


「本質的なことすなわち神とのあいだの秘密を言わず、語らないかぎりにおいて、アブラハムは一つの責任を引き受けている。それは、決断の瞬間につねにひとりでいて、おのれの単独性=特異性に引きこもっているという責任である。誰も私の代わりに死ぬことができないのと同じように、私の代わりに決断をすること、決断と呼ばれるものをすることはできない。だが口を開いてしまった瞬間、つまり言語という場に入りこんで/しまった瞬間に、ひとは単独性を失う。・・・言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。」(125-6)

キルケゴールによれば、倫理的要請は普遍性に従うものである。だからそれは語ること、つまり普遍性の媒体に入り込んで、自分を正当化したり、自分の決断を釈明したり、自分の行為をみずから保証したりするという責任を定めるものである。それでは供犠が近づいたとき、アブラハムは何を教えてくれるのだろう。倫理の普遍性は、責任を保証するどころか、無責任へと駆り立てるものだということである。・・・ここに責任のアポリアがある。つまり、責任の概念を形成しようとしても、それに到達することができないおそれがある、ということである。」(127)

 そんなわけで、アブラハムの喋ることは「異言」なのだ、とデリダは言います「だが責任とは、共同体がすでに聞くことのできること、あまりにもよく聞くことのできるようなことには無縁な言語によって、予告されるべきなのではないか。」(154)

 そこにおいて、強いて答える言葉があるとするなら、それはアブラハムの言うように「われここに」であり、それは、このような形で「わけのわからんこと」を言い募る神様に対して、それでもやっぱり答えてしまう、そしてそのわけのわからなさに報いることのできる唯一の返答である、とデリダは言います。それに答えることで、わたしは単独性の中に放り込まれてしまうのに。普遍性、倫理性を失ってしまうのに。


「我ここに」、それは他者の呼びかけへの唯一可能な第一の応答であり、責任=応答可能性の根源的な瞬間である。それは特異な他者、私に呼びかける者に私をさらすものとして、根源的な瞬間なのである。」(148)

 個人的に興味がありかつ重要だと思われるのは、デリダはこの「瞬間」をこう述べているということです。「瞬間の時間性・・・それは非時間的な時間性、捉えることのできない持続に所属する。」(137)ここを踏まえて、次の箇所を見てください。


「『おそれとおののき』の「結びのことば」では、各世代は先立つ世代のことを考慮しないで、信仰という最高の情熱に入り込むことを始めること、そして再び始めるべきことが繰り返し述べられている。こうしてキルケゴールは反復されるもろもろの絶対的な始まりの非-歴史を描き出す。それは絶対的な始まりのたえざる反復において、一歩進むごとに新たに表明されるような伝統を前提する歴史性そのものの記述なのである。」(166)

 そう、つまり、この非時間的な「瞬間」、それは絶対的な始源という意味での「非-歴史」であると同時に、歴史性そのものでもあります。非歴史であると同時に歴史性そのもの、瞬間であるにもかかわらず持続。このパラドクサルな時間性を、この「瞬間」という概念はもたらすことになります。

 次回は、それではこの文章の落ち穂拾いを少々、ということにしましょう。