スタンド・バイ・ミー

 さて、これまで二回を費やして、デリダの『死を与える』を考えてきたのでした。
 最終的に、今の段階ではどうしてデリダが「死」という問題と秘密という問題を強引にリンケージさせようとしたのか、わたくしは今ひとつはっきりと判っていない、というのが正直なところで、ここまでのノートもその部分は抜いて再構成してあります。というより、口頭発表原稿が元、ということもあるのでしょうがこの論文、デリダにしては収まりの悪いところが、特にハイデッガーレヴィナスあたりを中心に散見されますし、それを強引に挿入したこと、そしてこの題名、それがどうも必要なのかどうか必ずしも良く理解していないのです。おそらくは、パトチュカの著作を読めばはっきりしてくるのでしょうから、まあデリダのせいではないような気もしますが。


「責任とは、代替不可能な単独性を要求するのだ。この代替不可能性から出発してはじめて、責任ある主体や、自己や自我の意識としての魂などについて語ることができるが、この代替不可能性を与えることができるのは死だけ、というよりはむしろ死の把握だけなのである。」(108)

 おそらくこの箇所はもっともそこに接近するものではあるのでしょう。しかし、アブラハムの物語はここには不釣り合いです。アブラハムが死ぬわけではありません。
 とはいえ、せっかくレヴィナスに捧げた『アデュー』も邦訳が出たことですから、そのあたりをゆっくり勉強していけば、また別の方向からもその必然性は見えてくるものなのかもしれません。というわけで、今は保留しておきましょう。

 さしあたり、話はここでは、「死」ではなく「秘密」に絞りましょう。なんといったところで、この論文の終わりのところで、デリダは思いもかけないほど壮大な話を始めるからです。


「神とは、内部では見えるが、外部では見えないような秘密を、私が守ることができるという可能性に付けられた名である、と。このような意識構造、すなわち<自分と共にある存在etre-avec-soi>の構造があるとき、また、語るという構造、すなわち見えない意味を生産する、という構造があるとき、そして、見えない言葉そのもののおかげで、私が私の内に、他者には見えない証人を持ちえたとき、私が神と呼ぶものがあるのだ。」(220)

「神がみずからを顕現し、みずからの非顕現性を顕現するのは、生物と実存者の構造の中に、その系統発生的及び個体発生的歴史をとおして、秘密の可能性が現れたときなのだ。・・・そして、この秘密の可能性とは、完全に不可視なものとし、みずからの内にこの不可視の証人を構成しようとする欲望や能力のことでもあるのだ。これは秘密の歴史、秘密であると同時に秘密なき歴史としての、神や神の名の歴史にほかならない。」(221)

 パトチュカのプログラムから遠く離れて、ついに話はここまで来ています。パトチュカと、それを解説するデリダによって、プラトンの『パイドン』をモデルに、みずからには不可視の内部空間の存在が、一つのメルクマールとして記されました。しかし、そこに主体の行為という次元は入っては来ないのです。あくまでメディテーション。問題は、この見えない領域を、他者に向かって贈ること。それはある意味では贈与と言うより「みずからの内にこの不可視の証人を構成しようとする欲望や能力」なのかもしれません。そして同時にもう一つ、このこの見えない証人は、見えない言葉そのもののおかげで、見えない意味が生産される、すなわち語ると言うことの構造のおかげで、初めて生まれてくるものです。この証人こそ、「自分と共にある存在」にほかなりません。

 とはいえ、パトチュカのモデルでは、あくまで「人間が永遠に従属している到達不可能なものの諸特徴」は厳然と存在しています。だからこそ、「秘儀が破壊されることはない、歴史はそれが隠しているものを決して抹消しないという公理」が成り立つのです。贈与とは、ダイモーン的な秘儀や、プラトン的な瞑想(といっちゃっていいのかしら)と並んで、それを飼い慣らす一つの方法であり、そして、ある一点で大きなブレークスルーでもあります。それは、絶対的な形でそれを他者に贈与し、同時にそれを(そのことによって)みずからのものとして引き受ける、という二重(というか三重)の運動でもあるということになります。

 精神分析であれば、その「決して抹消されない」なにかを、おそらく不安という風に名付けたでしょう。デリダもそれははっきりと意識しています。


「ここに秘密の秘密があるのだろう。すなわち、秘密についての知などはなく、秘密は誰にとってのものでもないものとしてあるということだ。秘密はなんらかの「我が家」に所属することも、そこに付与されることもない。それこそがGeheimnisのUnheimlichkeitであり、このUnheimlichkeitという概念の射程を体系的に問いたださなければならないだろう。」(189)

 ここで、不安とは、これもここのところこのブログで延々と書いていた、主体なき知のようなところがあります。秘密であるからには、それは一つの知を隠し持っている。しかし、その知についての知は存在しないのです。ラカン風に言えばシニフィアンは連鎖しない。ですから、晩年のラカンが言う意味でのシーニュです。(そうそう、バディウ先生、ラカンが「欺かない」といったのは不安です。)
 その、みずからにとって不可視なものを不可視なままに留めつつ、それを他者に委ねなければなりません。

 ここで面白いのは、デリダパロールの関係。一見すると、デリダアブラハムの沈黙を称揚している。「本質的なことすなわち神とのあいだの秘密を言わず、語らないかぎりにおいて、アブラハムは一つの責任を引き受けている。」(125)「が口を開いてしまった瞬間、つまり言語という場に入りこんで/しまった瞬間に、ひとは単独性を失う。」(126)のですから。
 しかし、その神とのあいだの秘密、決断の瞬間、それもまた、「我ここに」という応答に、パロールによって担われなければいけない、というより、その行為以外にみずからを支えるものなど何もない瞬間なのです。


「「我ここに」、それは他者の呼びかけへの唯一可能な第一の応答であり、責任=応答可能性の根源的な瞬間である。それは特異な他者、私に呼びかける者に私をさらすものとして、根源的な瞬間なのである。」(148)

 このときのデリダに「満ちたパロールla parole pleine」について、ちょっと訊いてみたい気もするのです。かなわぬことですが。