嘆きの神様

 前回までは、デリダの『死を与える』について延々と書いていたわけですが、この本にはカップリングが付いています。「秘密の文学−不可能な父子関係」ですね。こちらは、よりアブラハムの物語に密着したはなし。でも、ここで注目してみたいのは、前回に続き神様の方。なにせ、デリダの神様はここではノアの大洪水を起こしたあとで「ああやっちまった失敗だったかなあ」とぼやき、おいおい義人ノアが神様で神様本人が咎人みたいじゃん、と突っ込まれる神様なのです。
 そして、デリダ先生はそのときの神様を掴まえて不敬にもこう言います。


「しかし、いったい神は誰に語っているのだろうか。秘密裏にかそれとも大声でか。それこそが、文学の起源ではないだろうか。」(334)

デリダのいいところは、この神様が西欧の思想の中に脈々と流れる系譜の上にあることを意識していることでしょう。


「神の前言取り消しによって、また神が自分自身を振り返り、自分の創造を振り返る行為によって、そして神が自分がうまくやらなかったことを、まるでそれが完了したものであると同時に無限に完了しないものであるかのように(エックハルトベーメヘーゲル等においてもたどることができるような伝統だ)見直すようにしむける、そうしたあらゆる内省と記憶の運動によって提起される途方もない問題(意味論的で注釈学的な)に、私たちはここで深入りすることはできないだろう。」(327)

 うまくやれなかった神様。「世界−未完のプロジェクト」とか言いたくなっちゃうような話です。このブログ的に言えば、「シェリングも入れてあげて」と一言申し添えたい気分でいっぱいです。実際、こう書いているときのデリダが、同じように悪の問題と神の創造の問題をリンクさせていたシェリングを意識していなかったとは思えません。


「許しは神の物語である、と。それは、神の名において書かれたり、送り届けられる。許しは、人間を通して、神と神のあいだの契約のようにして行われる。それは、人間の身体を通して、人間の悪癖を通して、つまり人間の悪あるいは欠陥を通して行われる」(330-1)

 ですから、短く、比較的平易、な論文、というのは、ホントかなあ、と、ものすごく気になるところではあります。
 でももちろん、この話はこの論文の中では、ちょこっと傍流です。あとから本流になってくる気もしますが。でもとりあえず、文学の本質、という問題についてデリダがここで論じるのは、あくまでもアブラハムの話が中心。まずは、このあたりから見ましょう。


「私はここで、秘密の問題を、アブラハム的起源を持った、見たところありそうもないような星のもとに生まれた文学の秘密として書きとめる。まるで文学の本質が、厳密ナ意味デ、この西洋の語が西洋において持ちつづけている意味で、本質的にギリシア的な出自ではなくて、アブラハム的な出自のものだとでも言うかのように。まるで文学の本質が、この不可能な許しの記憶を糧にして生きているかのように。」(298)

 では、この秘密とは何でしょう。冒頭でデリダは、「何かを隠すこと、その真実を明かさないことにあるのではなくて、絶対的な特異性を尊重すること」(280)と述べます。では、それはどのような意味での秘密なのでしょう。この秘密は、二重の意味での秘密なのだとデリダは言います。


「二重の秘密、二重に与えられた秘密の責任を負う決断。第一の秘密。神が彼に呼びかけ、絶対的契約の差し向かいの対話の中で、もっとも高価な犠牲を彼に求めたことを、アブラハムは明かしてはならない。この秘密については、彼はそれを知っており、それを共有している。第二の秘密、しかし原-秘密は、犠牲の要求の理由あるいは意味である。この点に関しては、アブラハムは、ただたんにこの秘密が彼にとって秘密のままにとどまっているという理由で、それを守らなければならない。この場合彼は、神の秘密を共有しているからではなくて、それを共有していないから、それを守らなければならないのである。」(291)

 話は前回扱った『死を与える』からさほどぶれてはいない、しかし重心が置き直されている、ということが判ります。第一の秘密は、だってしかたないじゃん神が息子を殺せといったんだ!と、アブラハムが声を大にして叫びたいであろう、神との面談のことを黙っていること。そして第二の秘密は、息子を殺せというその理由は、神様ってばお茶目にもアブラハムにもひ・み・つ。息子を殺せっていう無茶な要求をするからには、微に入り細に入り情報開示すべきだと思いますが、神様はそんな気はさらさらありません。問題なのは、「相手が秘密にしているから自分もそれについて黙っていなくてはならない」という論理です。
 お分かりかと思いますが、これは心的外傷の論理でもあります。ラプランシュの「謎めいたメッセージ」("The Theory of Seduction and The Problem of The Other" in The International Journal of Psycho-analysis, 1997, p.653-666)という概念は、このあたりをよく説明しています。ラカンを通じてフェレンツィまで遡るこの概念、つまるところ、沈黙のうちに留まりながら、同時に反復されるもの、それはこの「秘密」、それも自分に向けたメッセージとしてうけとられた相手の秘密だ、ということです。この問題、フェレンツィの研究者であるアブラハム=トロックのあの著作に序文を付けたデリダが知らないわけがありません。もっとも、フェレンツィの研究者としての、そしてデリダのクリプトという概念との関連を知るにはこちらのほうが良いかもしれませんが。

とはいえ、もし、文学そして文字がこの秘密のあとに生まれるのであるとすると、ねえねえ、やっぱりパロールの方が先なんじゃないの、と、ちょっかいをかけてみたい誘惑は押さえきれません。ちなみに、ラカン先生本人のこの問題に関する御託は以下。


「一つのエクリチュールが思考を支える行為となるのです。実のところ、このボロメオの結び目エクリチュールの意味を完全に変えます。これは前述のエクリチュールに対して自律性を与え、この自律性はデリダ固執するような別のエクリチュールがある分ますます注目に値するものとなります。つまり、シニフィアンの沈殿とでも言いうるようなエクリチュールのことですが、デリダはこれにこだわっています、しかしはっきりしているのは私は彼に道を示してやれるだろうということです。なぜなら、私がシニフィアンを具体化するにあたってSという書き方以外を見つけられなかったという事実そのものが既に一つの手がかりとなっているからです。しかし、残っているのはシニフィアン、つまり声において調整されるものが、エクリチュールとは何の関係も持っていないということです。これがボロメオの結び目が示してくれていることです。これはエクリチュールの意味を変えます。どのようにしてシニフィアンを引っかけることができるかを、その手がかりを示してくれているのです。ではどうやって。これは私がdit-mensionと呼ぶものを媒介としてなのです。」1976.5.11

 長い。長く引用したのはこの文章の意味を私がまだ解説できるほど理解していないからです。ですが、とりあえず予想はつきますが、御大、まったく譲る気はないようです。しかし、さしあたりこの時点でこのややこしい問題に白黒つけるのは止めておきましょう。っていうか無理だし。

 ともあれ、今話し合うべきはアブラハム。次回は話をそこに戻して議論を追っていきましょう。