内緒の手紙

 ヤナーチェクではありません。前回に引きつづき、デリダ『秘密の文学』を。

 この、アブラハムの置かれた可哀想な状況をデリダはこう描いています。


「絶対的秘密であり、共有していない秘密に関して共有して守るべき秘密。絶対的な非対称。」(301)

「それはどんな内容も、隠すべきどんな意味も、秘密の要求そのもの以外のどんな秘密も持たない秘密であり、つまり呼びかける者と「はい、わたしはここに」と答える者のあいだの関係の絶対的独占性であって、その独占性こそが、もし仮にそのようなものがあるとすれば、呼びかけと応答の条件であり、おそらくその純粋な条件なのである。」(341-2)

 しかし、ではデリダは、このアブラハムの置かれた孤独な、絶対的な非対称性から文学は生じるといいたいのでしょうか。
 一見すると、答えはイエスのようにみえます。ギリシア的ではなくアブラハム的な起源、と言っちゃっているのですから。でも、ここまで見てきた中で、そして聖書の中でも、アブラハムは誰にも許しを請いません。許しを請うたとは言いませんが、前言を取り消すのは神の方です。そして、アブラハムの返答、あの責任=応答性とされた「はい、ここに」は、それ自体が神に対する愛、ないしは愛を乞う神に対して、その愛に応えるようである、とも言えるでしょう。デリダがそうほのめかしているとおり。
 


「もし私が許しを他者に対して、つまり私の過ちの、したがって必然的に裏切りやなんらかの制約違反の犠牲者に対して求めるとしても、私が苦しんでいる、私が自分で自分を-苦しめ、他を-苦しめている前言取り消しの運動によって、私はその他者と少なくとも潜在的に同一化しているのである。だからつねに許しは、前言取り消しを通して、自分自身に対してもまた他者に対しても、つまり他なる自分自身に対して求められるのだ。」(330)

 だとすると、それはある種の神人同形説のようにも響きます。「言おうとしないことを許してください」という、秘密を守るがゆえに沈黙を守らざるを得ないアブラハムが、哀れな息子に投げかけたかったであろうこの許しの言葉、それは神自身が、アブラハムが息子に刃を振り下ろす瞬間に発したとしてもおかしくない。デリダは言います。神自身が直接そういう風に言うのではなかろう、しかし、「神の名」がわたしたちに言わんとしていることはそういうことだろうと。(314)ではここで神は?潜在的に人間と同一化することになるのでしょうか。それとも、神は人間を介して再び神自身と関わり合う、というシェリング的なテーマのことなのでしょうか。それはまた後ろの方で見ることになるでしょう。

 この「無条件に独異な契約」「神とアブラハムと彼の血をひくものとのあいだの狂気の愛」(345)。文学は、その出来事の独異性以外に掟を持たない、つまり、その絶対的な秘密以外に起源はもたないものとなります。
 文学は、ある意味ではあらゆる宛先を、対応先を宙づりにしてしまう行為です。それはちょうど、アブラハムの孤独に似ています。アブラハムの守らなければならない絶対的な沈黙は、そして神の投げかける謎は、すべてを宙づりにするもの。共同体の倫理に対する説明責任の拒否は、共同体によって説明責任を免除された文学の運命の、精神史的なご先祖様なのです。
(とはいえ、この部分、デリダにしては恐ろしく駆け足で、ある意味粗雑な印象をぬぐえない感もあります。こんなに重要な箇所をどうして3,4頁で済ませてしまったのでしょうか。)
 
 ともあれ、それがこの虚構性の成立に必要な宙づりの論理的な基盤です。ですが同時に、神とアブラハムの双方から求められる許しは、文学そのものの起源であるがゆえに、この絶対の独異的に対する裏切りでもあります。それを記してしまうことは、この狂気の愛を受け継ぐアブラハムの名をもつものであることに対する裏切りなのです。

 不可能な父子関係、デリダはそう副題を付けています。それは、この独異性が、可能でもあり不可能でもある父子関係の中で、裏切りというかたちで伝承されていくことを選んだものが文学であり、その文学において父子関係は不可能である、ということにほかなりません。

 そしてもう一つ。デリダはここで、神が犠牲を、つまりはアブラハムの息子殺しを中断させた瞬間で論文を結びます。そこで神は変なことを言う、と。つまり「みずからにかけて誓う」
 神の再帰性?神の自己言及?神のトートロジー?そう、ここで問題は、「エックハルトベーメヘーゲル等においてもたどることができるような伝統」に、ついでにいえばシェリングにもたどり着くような伝統に、逆戻りするのです。そしてそこで中断されるのです。
 もちろん、わたくし個人の見解では、上の方でちょこっと触れたように、デリダもまたここで、神は人間の悪を通じて神自身と関わる、という方向に傾いているように思われ、その意味でこの伝統に連なろうとしているのではないか、とは付け加えておきたいところですが。

 しかし、こうした意味で、この論文は、難しい、そして未完の論文のようにも思われるのです。