逃がした魚は食えない

 かなり昔のことです。研究室の先輩から電話がかかってきました。

 「君、米三合余ってないかね?」

 ここを興味を持って読んでくださる方はおそらくよくご存じかと思いますが、大学院生、とくに文系の院生はみんな貧乏です。というか怒濤の貧困生活です。スイス人の知り合いからは、スイスならストリートチルドレンみたいな人たちでももっとマシな社会保障が受けられる、と号泣されたことは内緒です。そんなわけで、わたくしが貴重な米三合、いかにお世話になっている先輩の頼みといえども、そう易々と提供するわけには行かない、と、警戒心も顕わにこう聞き返したとしても、けっして責められることではないでしょう。

 「あ、ありますけど・・・それがどうしたんですか?」

 先輩はいいました。

 「それをくれ。そしたら僕はそれをおにぎりにして釣りに行く。釣れたら君にも分けてやる」

 どうして米の2kgも買いに行く金がないんですか?という質問は、悲しくなるのでしないことにした優しい後輩。

 さて、人類の歴史に貨幣経済というシステムが誕生してはや3000年(?)、その営々たる働きの積み重ねが目の前で崩壊していくのを見ることになったわけですが、考えようによっては単なる物々交換ではなく投資という要素も入っています。うーん、などと思いつつ、

 (米にはまだ余裕があるがタンパク質にゆとりはない・・・)

 というこちらもまた悲劇的な状況、ここは乗ってみよう、ということで、米三合、拠出してきたのでした。結果は大ぶりのニジマス3匹となって帰ってきました。その一週間、わたしの食生活に豊富なタンパク質が備給されたことはいうまでもありません。(ソテーとホイル焼きとムニエルでいただきました(-人-)。)

 そんなわけで、その後しばらくして再度似たような申し出があったとき、わたくしが一も二もなくOKしたことは、決して責められることではありません。しかし、やはり野生生活から遠くなった都市の人間のせいでしょうか、わたくしは根本的なことを忘れていました。そう、今度は釣れなかったのです。採集狩猟経済とは斯くも不安定なものなのです。貴重な教訓ですね(だが誰にとって?)

 先輩は申し訳なさそうにいいました。

 「すまん、腰まで琵琶湖に浸かって一日釣っていたのだがダメだった。雨の日は釣れないんだよ。でね、そばをでかい魚が悠然と通り過ぎていったので、思わず殴りつけたらぷかーっと浮いてきた。でもそれはニゴイという魚で、あれは食えないんだよ。」

 ・・・とりあえず文句を言うのは止めよう、とわたくしが思ったことはいうまでもありません。

 それはなぜかと聞かれたら、まあ、わざわざ山越えてはるばる琵琶湖まで行って、一日雨の中釣って、という同情すべき与件が多々あったこともあるのですが、それよりもむしろ、そのはなしを聞いた瞬間に、「エラン・ヴィタール」ということばが頭の中を駆けめぐったからでしょう。エラン=ヴィタル、生の跳躍、elan vital、いわずとしれたベルグソンの言葉です。わたしの知人は「生き生きジャンプ」と訳していましたが。。。いや、とれとれぴちぴち蟹料理やないねんからアンタ、という感じ。

 それはさておき、以前、ドゥルーズについて書いたときのこと(id:rothko:20040927)、そのとき「意識の純粋な前-主体的流動、非人格的で前反省的な意識、自己なき意識の質的な持続」(Immanence:une vie..., dans Philosophie, no.47(septembre, 1995), p.3)というドゥルーズの言葉を、後期フィヒテとの関連で紹介したのでした。おかげでそのネタは後期フィヒテの講義のいくつかの読書ノートというかたちになったわけですが(id:rothko:20041204)、しかし、この持続という言葉、そしてこの発想、ベルグソンはどうなのさ、という質問をされたこともあって、ちょっとドゥルーズベルグソン論を読み返す機会がありました。今回はその話を。

 この『ベルグソンの哲学』ドゥルーズせんせい30歳のときの講演が元なのだそうです。うーん。。。コンパクトで明晰で。そして30歳。ちょっとショック。

 まあそんな個人的感慨はどうでもいいのですが、つまるところドゥルーズのこのかなり早い時期の作品の中でも、ドゥルーズベルグソンのテーマとして読みとったのは、「持続が事実として自己意識になるのか、記憶と自由に現実的に到達するのか」ということだった、という点がとても興味深いのです。つまるところ、最後に書いたもの("Immanence:une vie..."は著者自身で発表されたものとしては最後の原稿なのだそうです)から、あきれるほどぶれていない。

 持続。ベルグソンの有名な比喩では「砂糖が水に溶けるまでわれわれは待たねばならない」というのがありますね。待ついらいら。そこにあるのは私の持続、砂糖の持続。わたしが砂糖を見ているのではなく、私の持続と砂糖の持続が出逢うないしは出逢わない、そんな複数の時間のリズムがそこにはあります。釣りなんてその最たるものでしょう。ですから、魚を殴りつけた先輩の一撃に、多様体としての持続を飛び越える「エラン=ヴィタル」を見て取っても、まあそんなにおかしなことではありません。

 ですから、持続は持続はつねに質的な差異の場であり環境、集合であり、多様体でさえある(25-6)ということになります。
 でも、それではどうしてドゥルーズは「持続は本質的に記憶であり、意識であり、自由である。」(51)と言うのでしょうか。

 そこにはドゥルーズの風変わりな記憶の理論が反映しています。というより、ベルグソンの記憶の理論を読みとるドゥルーズの風変わりさ、というべきでしょうか。ここではドゥルーズのまとめるベルグソンの記憶理論を追っていきましょう。

 ベルグソンの記憶理論の二面性を、ドゥルーズはこう指摘します。それは、記憶内容としての記憶と集約としての記憶である、と。
 前者は今の瞬間が前の瞬間の記憶を残しているから。こちらはわかりやすいですね。前のことを憶えているから記憶。憶えている内容は記憶内容。で、後者は、というと、後者は一つの瞬間は他の一つの瞬間が消えないうちは現れないという意味で集約が起こっている、ということだとドゥルーズはまとめています。ここ、わかりにくいですがあとあと大事です。(51-2)

 一般の記憶と知覚の理論は、存在と現在存在しているものとを混同しています。しかし、現在は存在しない。それは己の外にある純粋な生成変化であり、存在はしないが活動しているものですから。つまるところ、現在とは存在ではなく活動と有用性なのです。(55-6)

(この『活動』それと『有用性』という単語の原語、あとあと気になってくるのですが、原著が手元にないのです。というかこの本、細かいところで訳語の目配りのなさに由来すると思われる混乱が目に付く、ような気がします。勘ぐりすぎかもしれませんが。)

 しかし、他方で過去は活動しないが存在しているものです。それは即自存在と同一、つまり過去は存在の即自態なのです。(56)われわれは現在有ったものが流れて過去になり、そしてまた、その現在から過去を構成するのだ、と考えています。しかし、そうではない、と。

 こうして通常の定義は逆転し、現在はそれぞれの瞬間にそれが「あった」といわねばならず、過去はそれが常に永遠に「ある」といわなくてはならなくなります。(56)心理学的なのは現在であり、過去は常に存在論的である。(57)そしてこの存在論への飛躍によって、記憶内容は徐々に心理学的になり、潜在的なものから現実的なものへと移行する。(58)こうドゥルーズはまとめています。もちろん、そこに質的な差があり、だからこそ飛躍が必要なことは忘れてはいけません。

 ですから、過去と現在は、連続する二つの時間を示すのではなく、共存する二つの要素を示していることになります。ひとつは絶えず過ぎていく現在であり、もう一つは存在を止めることはないが、それによってすべての現在が過ぎていくところの過去。(60-61)これが、先ほどの記憶理論の二面性に対応しています。そこから、「過去は現在を追いかけるのではなく、現在によって、それなしでは現在が過ぎて行けない純粋な条件であると想定されている。」(61)ということになります。現在と過去の同時性という考えからは、過去は全体として、統合的な過去、すべての過去であり、それが現在と共存する、ということが導かれる。それがベルグソンのあの有名な円錐体の比喩である、と。(61)


「つまり、結局ベルグソンの持続は、継起によってよりもむしろ共存によって規定されるのである。」(62)

 少なくとも、ここで持続が記憶である、ということはわかるようになります。持続は、現在という純粋な生成変化、かれの目に映る差異の活動の存在条件として想定されるもの。つまり、現在という生成変化、その多様性が目に映ると同時に、そこにはその多様性を「集約」させ、取り結びひとつにおいておく何かが必要とされなくてはならないからです。
 そして、人は現在を離れて、その取り結ばせるものとしての「持続」、記憶内容への呼び掛けへと飛躍します。このとき、現在と過去には質的な差異(心理学的と存在論的)がある、ということを忘れないようにしましょう。だからこその飛躍です。記憶内容の存在しているレヴェルに身を置いた場合だけ、それらの記憶内容は現実化されようとする(65)、そして、記憶内容がイマージュとなることによって、現在と≪融合≫する(68)のだとドゥルーズは言います。

 でも、ここまでは記憶の理論。ではそれがどうして物質とつながるということになるのでしょう。それは次回見ていきましょう。