いきいきジャンプ

 さて、このイマージュを、ドゥルーズベルグソンに倣って、もう物質と区別していないことを指摘しておくべきでしょう。バークリーから脈々と流れるこの思想史的系譜。でもなんで?と聞かれるとドゥルーズはこう言います。客観的なものとは潜在性を持たないもののことである。物質には潜在性も隠された力もない。そこでわれわれは物質とイマージュとを同一視できるのだ、と。その特質は、分割されても性質の変わらないもの、という意味での数的多様性であり(38)可能態においてのみ存する数である(39)とも、ドゥルーズはいいます。

 ですから、もしこの持続がさまざまなレベルで現在と出逢う、というのであれば、それはこの純粋な記憶としての持続が、どのような形で現在と出逢うことになるのか、そしてその出会いの形態によって、記憶内容としての記憶からイマージュとして、さらには物質としてまでの様々な形態が生成されてくるということになります。たとえば、ベルグソンの『創造的進化』は、この潜在的共存を無限に多くの特殊な持続へ広げるもので「そこでは生そのものが記憶と比較され、類または種は、この生の記憶の共存する段階に対応している。」(84)ということになるのです。


「われわれの出発点はひとつの統一性・単一性であり、潜在的な全体性である。質的に異なるさまざまな線にしたがって現実化されるのは、この統一性である。この統一性はそのなかに潜在的に含まれているものを≪展開≫させ、発展させる。たとえば純粋な持続は、それぞれの瞬間において二つの方向に分割される。この二つの方向のうちのひとつは過去であり、もうひとつは現在である。あるいは、エラン=ヴィタルは、それぞれの瞬間に、二つの運動に分裂する。ひとつは物質のなかに落ち込む弛緩の運動であり、もうひとつは持続の中に上昇する緊張の運動である。」(106)

 こうなると、「物質と知性にはただひとつの同時的発生しか存在しない。ひとつの歩みは両方のためのものである。知性が物質のなかで収縮するのと同時に物質は持続のなかで弛緩する。」(98)という、ちょっと電波なところまで思惟は到達します。もっとも、この電波さ加減は相対性理論の誕生のショックと、それをどのように思考するかという、カントにとっての(ヒュームを介した)ニュートンのような困難な課題から要請されたことを忘れてはなりません。ついでにいっておけば、ドゥルーズはそれを、「持続は物質のもっとも収縮した段階にほかならず、物質は持続のもっとも弛緩した段階にほかならない。しかしまた持続は能産的自然のようなものであり、物質は所産的自然のようなものである。」(103)とまとめています。個人的には、イマージュで止めておけばよかったじゃん、という気も、しなくもないのですが、この種の「自然哲学」への要請は、ヒステリーを通じて精神分析にも科せられている主題であると考えると、ひょいひょい逃げを打っているわけにも行きません。悲しいことに。

 そうすると、最後の課題は、単一のもの「根源的同一性」がいかにして差異化する力を持つか、そしてとりわけ、持続が人間において事実として自己意識になるのか、記憶と自由に現実的に到達するのか、ということになります
 どういうわけか、人間においてのみ、現実的なものは潜在的なものに適合します。人間は、全体に妥当する差異化を創り、それ自体開かれている全体を表現できるような開かれた方向をあとづけるのです。
 ではなんで、この超克の条件は何か、という問いに対し、ドゥルーズはこうまとめます。それは知性と社会の一種の分離にある、と。そしてこの分離をもたらすのは直観ではなく、感情であると。(121-123)「要するに、感情は創造的である。」(124)

 あ、でも「知性と社会の分離」というと分かりづらいですね。では、明確にするためにもこのドゥルーズの一節を引きましょう。


「≪社会的抵抗の圧力が知性から≫わずかに分離しているということが、人間社会に固有の変化を規定していた。ところが、この分離のために、創造的感情という異常なものが生まれるか、あるいは具体化されるということが生ずる。」(124)

 つまり、それは個人の異議申し立てや社会の圧力とも関係はないのです。知性というのはどういうわけか、個人と社会の循環ないしは相互規定、相互参照のようなものを混乱させます。でもそれは、ただ円環をうち破るために個人と社会の循環運動を利用するに過ぎないのです。
 でもこの分離をもたらすのは感情です。直観ではありません。ドゥルーズは言います。「創造的感情は、知性の中での直観の発生である。」(125)


「そして、この創造的感情は、まさに宇宙的記憶にほかならないのではないだろうか。宇宙的記憶はあらゆるレヴェルを同時に現実化し、人間に固有な面またはレヴェルから人間を解放して、人間をあらゆる創造の運動に適合する創造者とするものである。」(124)

 こうして、記憶という潜在的な力が、感情という創造的な形をとって現実化への圧力となります。社会はそれ自体、他の生命体と同じように、閉じた系。それがこの力で開かれるのです。
 それでは最後に、ドゥルーズの簡潔な要約を置いておきましょう。


「持続は本質的には潜在的多様性(質的に異なるもの)であるように思われる。そして記憶はこの多様性・潜在性の中でのあらゆる差異の段階の共存として現れる。最後に、エラン=ヴィタルは、もろもろの段階に対応する差異化の線にしたがってなされる、この潜在的なものの現実化を示している。それは人間という明確な線において、エラン=ヴィタルが自己意識を把握するところまで到達する。」(126)