赤い星から愛を込めて

 さて、前回は「物質と知性の同時的発生」というベルグソン&ドゥルーズの話をしていたわけでした。ちょいと電波?電波が自然哲学なんでしょう、という某M澤師兄のツッコミはその通りなのですが、しかしこの際ですからちょいとでは済ませません、さらに吹っ飛んだところまで探してみることにしましょう。というわけで、今回はちょっと脱線してボグダーノフを。

 わたくしがボグダーノフを知ったのは以前お話ししたジジェクの『器官なき身体』から。ちょっと長いですが、引用しましょう。


「ボグダーノフは、感覚の流れが主体に先行することを強調したが、それは、主観の流れではなく、主観的現実と客観的現実との対立から観て中立である−すなわち、両者はともにこの流れから出現するとされている。とすれば、「経験一元論」は経験批判論の自己命名の一つなのだろうか?この語は、ボグダーノフの「メカニズム」やその展開についての「機械的」な了解は言うに及ばず、ドゥルーズの「超越論的経験主義」にとってもまた、適切な名称ではないだろうか?ラカン-対-ドゥルーズ−それは弁証法唯物論-対-経験批判論でもあるのだろうか?ドゥルーズ、彼はボグダーノフの再版なのだろうか?ボグダーノフは、原-ドゥルーズ的な方法にもとづいて、<事物>を客観的に存在する<物の即自>だと考えて擁護した人びとを非難したが、それは、そうした物自体の擁護者たちが非知から知を、経験されないことから経験されたことを説明するといった、基本的な形而上学的犯罪を冒しているからだった−そうした非難は、ドゥルーズがいかなる形式の超越も拒絶したのとまったく同じ立場から為されている。さらにボグダーノフは機械的な実験に熱中した急進左派でもあった。彼の基本的姿勢は、感覚の流れという「生気論」の機械的な結合術-組み合わせへの統合というものであった。ボグダーノフは改良主義的な日和見主義に反対するボルシェヴィキを支持していたとはいえ、その政治的スタンスは、「下からの」自己形成、ある種の中央的経験によって上から押さえ込まれることのない組織化を渇望する、急進左派のそれであった。」(53-4)

 なにやら面白そうでしょう?


 ここでのボグダーノフは、レーニンの「唯物論と経験批判論」でメインターゲットにされたボグダーノフ。ですからジジェクの構想では、当然レーニン&ラカンというタッグと、ボグダーノフ&ドゥルーズというタッグを交錯させ対戦させることになります。もっとも、ジジェクはここでは、レーニンのこの著書の哲学的意味をあざ笑うのはたやすいが、と脚注にも記しているくらいですから、哲学論争としてはレーニンにたいぶん分が悪いことを認めています。他方でしかし、その政治的感覚の正しさ、そして哲学的意義で言えばここでのレーニンの「ヘーゲルへの回帰」の重要性についても軽く触れています。困ったことにここでレーニンを大々的に論じる展開にはならなかったので、ジジェクの読みとるレーニンの意義はちょっと手短すぎ。お話がここで流れてしまった感がなくもありません。

 で、この気になるボグダーノフさん。いまどのくらい資料が集まるのかしら、と思ったら、実は近年九州大学の佐藤正則さんのお仕事で、その概要がとてもわかりやすく紹介されています。

佐藤正則「ボリシェヴィズムと「新しい人間」 : 20世紀ロシアの宇宙進化論」(水声社、2000)
アレクサンドル・ボグターノフ「信仰と科学」(佐藤正則訳、未来社、2003)

あと原著としては
ロシア・アヴァンギャルド芸術―理論と批評,1902-34年(J.E.ボウルト (編集), 川端 香男里訳、岩波書店、1988)に「プロレタリア的創造の道」と題した論文が所収です。ほかにも戦前にいくつか邦訳があり、いまでも『意識社会学概論』『経済科学概論』あたりはそこそこ古書で出回っています。興味のある方はこちらをどうぞ。

 ついでに
木田元『マッハとニーチェ』(新書館、2002)にもその紹介と、とくにマッハから大きな影響を受けたボグダーノフという文脈で。木田先生には手短に読めるところでこちらのサイトにも紹介を載せられています。
 それだけいい紹介があるのでこっから先は別に読んでいただかなくてもいいような(というかそもそも書かなくてもいいような)気もしますが、とりあえず一応読書ノートという当初のブログの方針に則って、ダイジェスト版でお送りしてみたいと思います。