血液交歓?

 それでは、前回に引きつづき、ボグダーノフさんの略歴を紹介しておきましょう。1873年生まれ。モスクワ大学では理数学部自然科学科で、ハリコフ大学では精神医学を学ばれたそうです。もっとも、学生運動連座してちょいちょい流罪とか、そういうのがこの間にはさまっているそう。1903年からはボルシェヴィキに参加。1905年には党中央委員にも選ばれています。レーニンとの論争が激化した1909年以降、漸次政治活動からは引退、第一次大戦中は軍医として、十月革命後はプロレタリア文化運動の中心人物として活動。1928年にお亡くなり、ということだそうです。

 さて、ボグダーノフの経験一元論とは何でしょう。かれはこう言うのです。まずは一元論の方から見ましょう。


「象徴理論は、主体と客体双方の存在を認めながらも、主体を一種の客体とみなし、主体の感覚を、一方が同時に主体でもあるような二つの客体の相互作用の産物とみなすことによって、この二つの要因を統合しようとする。このまさしく客観的で一元論的な視点に、現代科学は依拠している。」(167)

 これがマッハの影響圏にあることは言うまでもありません。しかし、ボグダーノフの魅力は、ここから一気に壮大な宇宙観を構成していくところです。


「経験一元論は宇宙を限りなく発展していく諸要素の世界と捉えている。」(『信仰と科学』73頁)

 ではどういう発展を?それは、無機的自然という脆弱な集合体から、心理的生物として知覚される観念連合的な結合、そして経験の個人的さらには社会的な組織化へというルートを辿ります。ということは、無機物としての自然、心理的な生き物としての主体の個人的経験、そして社会とが、要は一緒のもので、そのちがいはといえば組織化の度合いというが強度というか、その違いということにされているのです。この組織化がボグダーノフのキーワードになります。




「物理的複合体と心理的複合体とでは組織化のタイプ、そして段階が異なる。心理的複合体とはより低次の、観念連合的、あるいは同じことだが、「主観的」組織化の形式である。これは個人的に組織化された経験である。他方、物理的複合体・・・は、より高次の組織化の形式、すなわち「客観的法則性」を備えている。その背後には労働と認識の集団的プロセスが潜んでおり、それらがより均整のとれた複雑な要素の集合体を作りだそうとしている。つまりこれは社会的に組織化された経験である。」(『信仰と科学』72頁)

 もちろん、ボグダーノフせんせいはこんなこといっときながらも、マルクス主義者であり唯物論者です。ですから、物質についてはもうちょっと補足しておく必要があるでしょう。つまり、かれにとって物理的経験の客観性とは、人々にとっての普遍的意義なのです。それが社会的に組織化され、それについて集団が全員一致しており、そのプロセスにおいて人々の共通の体験が結びあわされ、その法則性が形成される。そのおかげで、人々はその都度自分の体験をわざわざ検証しないで済むのだ、と。(『信仰と科学』83頁)複数のひとびとによって共有された、言い換えるならば社会的に組織化された経験は、どのようなものであれ、すべてイデオロギーと呼ぶことができることになるのですし、逆に今度はこうした社会的組織化の産物であるイデオロギーが人々の経験を組織化する機能を果たすことにもなります。

 つまるところ、外的な現実というものに関しては、彼の立場は極めて構成主義的であり、数学的な意味での直観主義的でもあります。この同時代的思想のあいだに関連性は何かないのか、ちょっとお伺いしてみたい気もします。そんなわけで、ここは単に「共同主観的」な発想をしている、というよりも、数学的ないしは科学的証明ということにたいする考え方のほうからアプローチしてみてもいいのかもしれません。別に「みんなで同じ夢見てればそれが現実ってことになるでしょ」というようなニヒルな意味ではなく、「証明する方法を持っていないときに、その証明とは無関係に外在する真理を前提にしない」という立場は、このレーニンとの論争でうかがい知ることができるようには思われます。

 まあそれはともかく、こうしてボグダーノフは真理という問題に関しては相対的な立場を取ることになります。たとえば、彼は言います。カトリックが人類の経験を調和的に矛盾なく組織化できるならば、カトリックは真理である、と。(『信仰と科学』79頁)彼にとって、「真理とは経験を組織化するいきいきとした形式であって、それはわれわれを活動においてどこかへ導くものであり、生存闘争での拠りどころをあたえるものである。」(「経験一元論」第三巻序文)なのです。
 ですが、このような組織化は、当然その過程でさまざまな外的抵抗に出逢います。何らかの外的作用がもたらす分裂や変化に組織化された複合体が抵抗するというだけでなく、所与の連関がその諸形態の闘争のなかで発生し、崩壊し、再編されていく。ボグダーノフはここに、史的発展の考え方が含まれていると想定しているのです。先の唯物論とあわせ、これでボグダーノフ的史的唯物論が完成するわけですね。
 ここには、ボグダーノフとマッハの相違点が伺えます。ボグダーノフにとって、経験は労働実践、外の世界に対する働きかけとそれに対する抵抗の総体、つまり人間と自然の関係性であり、外部にそれ自体として存在する事物の受動的な知覚としてではなく、要素の組織化という能動的な行為として捉え直された認識なのです。(『ボリシェヴィズムと「新しい人間」』52頁)そして、こうした労働の成果として、組織化は再編、崩壊を繰り返しつつ発展、高度化していくのです。そして最終的には、「ボグダーノフは社会を生物の進化の一環に組みこんでいる。社会とは固体を超えた高次の生命体であり、その意味では人類社会の出現は、生物の進化が集団的あるいは社会的な新しい段階に入ったことを意味している。」(『ボリシェヴィズムと「新しい人間」』71頁)というところまで、話は進みます。

 ついでにいっておくと、こうした組織化の高度化は、ボグダーノフにとってエントロピー則の支配するところと想定されていた外界、自然とは当然そぐいません。こうした組織化の高まりは、その意味ではより一層の自然との摩擦をもたらすのだ、という予言もあるそう。環境問題です。というか、SFも書いているのですね、せんせい。で、そのSFのなかではそういう話も出てきているのだそうです。

 しかし、話はここから。このSF『赤い星』(火星です、ねんのため)で、ボグダーノフはこうした社会=生命体とでもいうべき高度の組織化が完成された社会を描いているのですが、そこではそれを構成する個々の成員の身体まで変容し、個体差は少なくなり、そしてあらゆる要素、具体的には血液をも交換、共有していくのだ、とされています。
 これはお話では済みません。レーニンとの闘争ののち、政治活動から引退したボグダーノフは、晩年に「輸血研究所」を設立、みずからのこうした理念の実験に身を供し、お亡くなりになってしまうのです。1928年。1873年のお生まれですから、享年54,5歳でしょうか(-人-)。
 しかし、身体の共有という問題はユートピア思想の中ではつねに躓きの石、「フランス国民よもう一歩だ」と叫んだサドせんせいからフーリエユートピアまで、いろんな解決案が提示されてきましたが、まさか血を交換するとは思いつきませんでした。これなら微妙に性的問題を回避できますし。さすがロシア。

 さらにいっておきましょう。佐藤先生の著作には、ボグダーノフと思想圏を共有していたと思われるプロレタリア文化運動「プロレクトリクト」では、感情や精神の共有、その技法としての芸術という着想のほかに、文字通り機械と接合した身体による、一種の社会身体の創造の夢が描かれていた、ということが論じられています。おそらく、上述の引用でジジェクが触れていたのもこのあたり。マシニックな接合どころではありません。その中心人物の一人、ガスチェフの詩は、人間と機械との完全な融合を通じた集団的身体の創造を夢見てさえいるのです。

 個人的には、一元論というのはどうしていっつもこんな終わり方になっちゃうのかな、というところが、少々寂しくもあるのですが。しかし、ヨーロッパに脈々と流れる一元論の伝統の美しい花の一つであることに変わりはありません。ついでながらいうと、訳書の数から見ると欧米圏でも必ずしもメジャーとは言えそうもない著者の良い紹介や翻訳が簡単に読めるというのは、とても嬉しいことで、学者らしい学者のお仕事に感謝したいところでもあります。