青空劇場


『劇場の比喩にわたしたちは惑わされてはならない。・・・・・・それらの場面が表象=上演される場所や、その場所を構成している材料については、わたしたちはどれほどかすかな認識であろうと、もちあわせていないのである。』(『人性論』二巻103-4)
 ヒュームのユニークな一節です。
 初期ドゥルーズ、元原稿が書かれたときにはまだ22歳(あきれてものもいえない)のドゥルーズのヒューム論「経験論と主体性」の、ある意味でもっとも印象的な箇所は、ヒュームのこの一節であるような気がします。ドゥルーズは続けます。「場所は、そこで起こることがらと異ならず、表象=上演は主体のうちにあるのではない。」(8)そう、主体という枠組みがあり、そのなかで観念という劇が上演されているわけではない。(箱もの優先公共事業批判ではありません、たぶん)

 こうした視点から、ドゥルーズの読みとるヒュームのテーマは以下のようなものになります。
「ひとつのコレクションは、どのようにしてひとつのシステムに生成するのか。」(7)
「精神はどのようにして或るひとつの主体に生成するのか。」(8)
 はい、おわかりのように、今回もまたご好評をいただいて・・・はいないシリーズ「主体の作り方」のメモでございます。


 このテーマは、このさして長いとはいえない書物の中で驚くほど頻繁に出てきます。ここから展開されるヒュームの心的システム生成論(のドゥルーズ的読解)は、じつはドゥルーズらしい明解さをやや欠いており、その分だけこのリフレインが余計に目立つ、という感もなくもありませんが、そのあたりはやはりいくぶんか若書きの面影を残している、というところでしょうか。とりあえず問題設定は分かったけど。
 とはいえ、茶々を入れるのは辞めましょう。ドゥルーズもこう言っています。


「哲学的理論とは展開された問なのであって、それ以外の何ものでもない。なぜなら、哲学的理論の本領は、それ自体によってもそれ自体においても、問題を解決することにあるのではなく、明確に述べられた問に必然的に折り込まれている意味を徹底的に展開することにあるからである。」(168)
 そう、ですから、この「観念のコレクションから主体というシステムへの生成」という問題設定を受け入れたのであったとすれば、その「展開」のときとして見られる不手際さは些細な問題です。

 個人的なことを言えば、


「要するに主体とは、はじめのうちは諸原理によって残されたひとつの刻印であり、ひとつの印象なのであるが、しかしその印象は、その印象そのものを利用することのできるひとつの機械へと次第に転向していく印象なのである。」(180)
 というあたりは、フロイトの「科学的心理学草稿」における心的装置論のニューロン仮説を思わせるに十分なものですし、また、二種類の情動、すなわち、一方は精神を、その情動が発してくる快ないしは苦へと向け、良いものと結びつき悪いものを避けるようにする原始的本能、他方は、精神をその情動が生産する対象の観念へと向け、その情動が間違いなく生産するある観念を割り当てる自負、卑下、愛情または憎悪といった情動(188)という区別は、ん?自我リビドー?快感原則?みたいなところも。もちろん、フロイトがイギリス経験論からヒューリングス・ジャクソンからその他もろもろからを通じて、観念連合説に親しんでいたことは言うまでもないことなので、まあ当然といえば当然ですが。とはいえ、それならそこから主体を構成していくプロセスは、当然フロイトの草稿理解に資するところ大であろう、という期待もしてしまうのが悲しい商売上の性。
 ともあれ、そんなわけで、ここでノートはあくまでこの「主体の生成」というところに主眼がある、というバイアスはお知りおきくださいませ。

 さて、こういう問題を立てるときに、出てくるのは当然カント。経験経験といいますが、そもそもなんでその経験を経験することができるのか。所与のカオスの中から何かをつかみ取ることができるのか(掴み残した部分は物自体になるわけですが)。以降は若干疑問の余地がなくはありませんが、ドゥルーズの議論(177〜)に従って話を進めてみましょう。
 さて、ヒュームの経験論では、まるで「運良く良い経験ができて」主体がそこから学習して自分をできあがらせていくかのようです。それは無理じゃあなかろうか。そうではなく、所与それ自体が始めから、経験の主体のために表象の結合を規制している諸原理と同様の諸原理に従っているのでなければ、まとまった形での経験というのは不可能ではなかろうか、というところに、カントの逆転打がうまれたのでしょう。こうして、経験されるものには、とにかく「経験可能印」が着いていなければいけないことになります。超越論的対象xですね。ドゥルーズはいいます。超越論的なものとは超越を或るもの=xに内在させるものである、と(178)。

 それに対するドゥルーズの立場は、とどのつまりはこの本の末尾を飾るこのパッセージに集約されています。


「哲学は、わたしたちがおこなうことについての理論として構成されるべきであって、存在するものについての理論として構成されるべきではない。わたしたちのおこなうことにはそれなりの諸原理がある。そして≪存在≫とは、わたしたちがおこなうことについての諸原理そのものに綜合的に関係づけられる対象としてしか、けっして把握されえないものなのである。」(214)

 そして、ドゥルーズがヒュームから読みとったのは、この見解を支えてくれる視点こそ、ヒュームがわれわれに教えるところである、という点でしょう。以下のパッセージを見ましょう。


「ヒュームがわたしたちに教えてくれるのは、表象=再現前化は関係それ自体を示す指標にはなりえないということである。関係は表象=再現前化の対象ではなく、活動の手段なのである。」(194)
 ですから、ドゥルーズの視点では、経験論は一風変わった超越論とでもいうべきステイタスを獲得します。

「精神のなかでは何ものも人間的自然を超出しないのは、つまり何ものも超越論的でないのは、人間的自然がその諸原理において精神を超出するからである。」(10)
 こうして、ドゥルーズにとっての経験論は、この諸原理が主体と呼ばれるであろうものを構成していくこと、そして、にもかかわらず、この主体を呼ばれるものが自己を自己として把握していくこと、ドゥルーズの言いまわしを借りれば主体が自我へと生成していく過程を描くものとなります。ドゥルーズの定義する経験論の本質を見ましょう。

「感覚的印象は精神の起源でしかない。それに対して、反省的印象は精神の性質づけであって、精神のなかでの諸原理の結果=効果である。・・・本当の重要性は、反省的印象の側にある。なぜなら、反省的印象こそが、精神をひとつの主体として性質づけるからである。経験論の本質と運命は、原子にではなく、連合に結びつけられている。経験論が本質的に提起するのは、精神の起源に関する問題ではなく、主体の構成に関する問題である。経験論はさらに、精神のなかでの主体の構成を、或る発生の所産としてではなく、超越している諸原理の結果=効果として考察する。」(23)
 そして、解かれるべき課題、あのリフレインの変奏はこうなります。

「主体は諸観念のコレクションのなかで構成されるだけであるとしたら、どのようにして諸観念のコレクションはそれ自身をひとつの自我として把握することができるのか。・・・わたしたちは、どのようにして傾向から自我へと、主体から自我へと移行しうるのかを理解していない。」(24)

 では、次回は引きつづき、この論拠に則った主体の生成論をフォローしてみましょう。

 若干脇道に逸れることになりますが、となると疑問に思えてくるのはこの「人間的自然」という言葉。これが形を変えた超越論を要求しないのか、ということです。でも何にとっての?主体という言葉はこの超越論的(?)原理のあとに生まれてくるものですから、主体の超越論的基礎とは、言うことはできません。強いて言えば人間の?そして、人間ということは、じゃあどうなんだろう、と考えなくてはいけないことになります。ドゥルーズはこういいます。


「人間は本能を有していないがゆえに、また人間は本能そのものによって一個の純粋な現在の現実性に隷属させられるのではないがゆえに、人間はみずからの想像の形成力を解き放ち、おのれの傾向をまったく直接的に想像に関係させたのである。したがって、人間において傾向が満足させられるということは、傾向そのものに即した事態ではなく、反射した傾向に即した事態なのである。そうしたところに、本能とは区別される制度の意味がある。」(56)

 ドゥルーズの「超越論的経験論」は、とどのつまり本能を有していないという本能?という説におんぶにだっこなのか?という疑問も生まれます。(フロイディアンだったらべつにいいけどそれで。)しかし、さしあたりのところ、こうした超越という原理、という程度に話をまとめた上で、それを受け入れて議論を進めてみましょう。