僕の瞳に乾杯?(2)

 さて、前回はディーター・ヘンリッヒ 「フィヒテの根源的洞察」(座小田豊・小松恵一訳、法政大学出版局、1986)を元ネタに、「主観性の傲慢と暴虐」の権化と見なされてきたフィヒテが、以前論述した後期においてのみならず、比較的初期の段階から既に、そうした傾向とは全く相反する動機を持っていた、ということを紹介してみました。

 でもさ、ねえ、はっきりしているのは後期の方だけであって、その前期の方はヘンリッヒが、今の視点から(書かれたのは64,5年ですが)あと知恵でそう書いたんでしょ、とか、もしかすると、いや後期の講義はそうだったんだろうけど、でもそんなのきちんと発表されたものでもないし、知るわけないし知られてもいなかったでしょ、だいいち息子が編纂したんでしょ、とかいう反論もありましょう。そんなわけで、ここは同時代人(というか後継世代ですが)のヘーゲル先生にご登場願いましょう。

 既にして1801年という段階で、ヘーゲルは書いています。


「結合する力が人間の生命から消え、諸々の対立がその生き生きとした関係と交互作用とを失って自立性を獲得したとき、哲学の要求が起こってくる。その限りでは、主観性と客観性とが固定され対立している事態を止揚し、知性の世界と実在の世界としてすでに生成してしまった存在を、一つの生成として、この両世界の所産としての存在を、一つの産出する働きとして把握すること、これは偶然的なことではある、しかし、このことは、分離が所与となっている状況にあっては、必然的な試みである。」(16)

 念のためもう一度いっておくと、この本の題名は「フィヒテシェリングの差異」。そう、ハイデッガーが「ヘーゲル精神現象学」という講義で多用したあの書物です。ねえねえおじさん『精神現象学』以上にこっちを引用してない?薄いほうから引用して厚い方を説明するなんて手抜きじゃん、と思った記憶が懐かしく蘇りますが、まあそれだけの意義のある本です。ヘーゲルの、公刊された著作としては第一作となるこの著作、時代のレビューと課題と、そして向かうべき未来とをかなりクリアに、時としてロマンティックにポエティックに打ち出した、なかなかにいい本なのです。

 まあそれはそれとして、ヘーゲルのここでの意図は、まずこの分離Entzweiung(ラカンの読者ならイヤでも反応してしまうでしょうこの言葉。このヘーゲルの文脈をきちんと押さえておくことが、セミネールの12巻あたり、1965年6月の諸講義の読解に必要ですね。)というものを一つの前提条件として認め、理性はそこからの回復を目指す、というスタンスをはっきりさせることにあります。そして、フィヒテおよびシェリングが取り組んでいる課題もそれであると。「もう一つの前提は、意識が総体の外に出ている事態であって、存在と非存在、概念と存在、有限性と無限性との分離であることになろう。」(18)こうした立場の共通性こそ、まずもって確認されておくべきことです。なぜならヘーゲルがいうように「哲学のもつ真に特有なものとは、興味をひく個体性であって、この個体性のなかで、理性は、特殊な時代のもっている建築道具から自己を一つの形態へと有機化しているのである。」(12)からです。この時代のもつ建築道具。

 それを踏まえた上で、さて、ヘーゲルによれば、フィヒテの立場は結局は純粋意識、つまり、体系の中で絶対的なものとして提示されている主観と客観との同一性というものが、主観と客観との主観的な同一性である、ことを示すことである、として批判的に扱われています。しかしだからといって、それは先ほど指摘されたような意味での『主観性の傲慢』からフィヒテが逃れられていない、などということとは全くの別物。「理論的能力によって生じるのは、自我+非我としての客観である。言い換えれば、純粋意識は経験的意識と等しくないものであることが証示されるのである。」(65)という指摘にあるとおり、客体としての主体が主観としての主体と一致し得ず、不可解な客体を前にこの重なりあわせが首尾を果たし得ない、という意味で主観性から逃れ得ない、と指摘しているのです。


「理論的能力の客観が自我によって規定されないものを必然的に自己のうちに含む以上、実践的能力に訴えられることになる。・・・真の綜合が不可能であるという事情、すなわち、自我が主観性と、無意識的な産出の働きの中で自我に生じてくるXとの対立から自己を再構成し、自己の現象と一つになることができないという事情は、次のように表現することができる。つまり、体系の提示する最高の綜合とは、当為である、と。自我は自我に等しいという事態が、自我は自我に等しくあるべきであるということに移し換えられる。体系の結果はその始元に立ち帰らないのである。」(69)

 「同一性」、シェリングの「同一哲学」という名前にその名残を残していますが、そこにこの主観と客観の分離という問題が託されます。でもそれはまた別の話。しかし、すくなくともヘーゲルのいう絶対者も、こうした主観客観関係の乗り越えを目指したものであり、主体が絶対の知にたどり着きそれを我がものに、というような話でないことは確認しておかねばなりません。有名なあの一節をひいておきましょう。これもこの本が出典です。


「絶対者は闇夜であり、また闇夜よりも若い光である。そして闇夜と光との区別が、また、光が闇夜から歩み出ることが、絶対的差異であり、無が最初のものであって、あらゆる存在、有限なものの多様性の全てが無から生じてくる。しかし、哲学の課題は、この二つの前提を一つにして、存在を無の中に生成として、分離を絶対者の中にその現象として、有限なものを無限なものの中に生命として措定することなのである。」(18)


 そして、もう一つ、これはあんまりまだしっかりと説明できるものかどうかは分かりませんが、こうした立場がある意味で科学の勃興によって強いられたものではないか、という感じは、この本から強烈に感じ取ることが出来ます。ニュートンとカント、という対はつとに知られていますが、その一つのバリエーションとして。悟性は科学的な知であり、無限の客体化とその分析を展開していきます。この無限性。無限という言葉は、この本の中ではどうも、このような科学の持つ無際限な運動性を思わせる箇所が多いのです。自然という言葉もそれに同じ。ですから、自然哲学という今となってはまったく訳の分からない言葉が出てくるのです。
 そして、自己意識はそれに抗する唯一の砦。なぜならそれは明確に囲い込まれた領域を持つ(ハイデッガーなら「カプセル状」というでしょうが)ものとして、有限性を代表するからです。

 ですから、こうした客体としての私が、思惟する主体としての、知性の私になる瞬間。その媒介者としての自我。ヘーゲルは(彼の想定する)フィヒテとは逆に、そこから問題の解決に進もうとするこの時期のシェリングを評価します。ここもなかなか美しい一節。


「その媒介者、すなわち、自己を自然として構成する同一性がそこから出て知性として自己を構成するに到る移行点というのは、自然の光の内化である。この移行点は、シェリングの述べるところによれば、観念的なものの実在的なものへの落雷であり、落雷の点としての自己構成の働きである。」(121)

 逆にいえば、この落雷をフィヒテは最初そもそも主体の行為においていた、ということは言えそうです。そして、晩年のフィヒテが一者という観点からその主体の行為そのものを可能にする何かについて思惟をすすめたということも、補足しておきましょう。
 しかしさしあたり、それは措いておきましょう。とりあえず、この観点からシェリングを考察したヘーゲルの要約が以下になります。


「根源的同一性がその無意識的な収縮−これは主観的には感情のそれ、客観的には物質のそれである−を拡張して、空間と時間とにおける並存と契機との無限の有機体に、つまり客観の総体にしたのであり、また、この根源的同一性がその拡張にたいして、拡張を廃棄することによって構成される(主観的)理性としての自己認識的な点への収縮を、つまり主観の総体を対立させたのであるが、この根源的同一性は、完全な総体のなかで自己自身に対して客観的となる絶対者の直観−すなわち、神の永遠の人間化の直観、始元の言葉の証の直観のなかへと、客観の総体と主観の総体とを結合するのでなければならない。」(122-3)

 さて、こうしてみると、主体という問題が今も昔も変わらぬ問いとなっているのは、このように「科学」と呼ばれるものと自己意識との折り合いが未だついていない、ということの現れでしかないのかも知れない、という気も、ちょっとしないではありません。

 以下の箇所は、ヘーゲルフィヒテの国家論についてちょっと触れた箇所なので、本来の文脈とはまったく違う使い方をしてしまうことになります。ですがあえてひいておきましょう。「自己自身における終わりのない規定というものが、どのようにして自分の目的と自分を失うのかという点については、若干の実例を示すと極めて明瞭になるであろう。」(89)「限界づけられない限界性という二律背反のなかで、制限する働きは消失し、国家は消失しているのである。要するに、規定する働きの理論は、規定する働きという自分の原理を、無限に拡張することによって廃棄してしまっているわけである。」(91)

 限界性という言葉は、ここでは限定し、規定するという働きととりましょう。そうすると、これは科学の営みそのものです。しかし、その営み自体は限界づけられていない。つまり、無限に拡張されていきます。そうすると、自分自身が消失していく。すくなくとも、科学の主体は、自分を失う主体となる、というところでしょうか。

 まあ、警察国家という文脈がありますから、パノプティコンからハイパーパノプティコンへ、という文脈では使えそうですが、それにしても話が飛びすぎ、という方(私だってそう思います)、いちおうこれがラカンの四つのディスクールを念頭に置いたものであると考えて頂ければ幸いです。この場合の、限定する役割を果たしながら自らは限定されない言説構造、これはS2を主人にした、大学のディスクールそのものです。主人のディスクールは逆に、それ自体なんら限定する役割を果たさないにもかかわらず、知すなわちS2との関連で、全体としては限定する役割を果たしています。それをこの『落雷』のなかに見出して良いものかどうかは、うーん、ちょっと考え中です。

 さしあたり考えるべきは、前回もちょっといいましたが、「主体なき知という逆説」に精神分析がどう貢献できるか、という点でしょう。そして、考えようによっては、自然哲学!に比べるとずいぶん縮小版ではありますが、この「物質と感情の収縮」という点を、物質から身体に置き換えることで、新しい時代の自然哲学、そして同一哲学として考察することができるだろうか、というアイデアも、無くもないのですが、それはちょっと遠くまで行きすぎ。