意志の過剰


 

「思考を意識と同一視するなら、思考を物質の進化から説明することはさほど難しいことではありません。物質の進化から説明するのが難しいこと、それは端的に「ホモ ファベール」、つまり生産と生産者です。
 生産は独自の領野です。つまり、それはシニフィアンの組織化を自然の世界に導き入れるという意味で、「ex nihilo無から」の創造という独自の領野です。だからこそ、我々が思考を発見できるのは−−思考といっても観念論者のいうそれではなくて、世界の中への現前化という点での思考ですが−−ただシニフィアンの狭間においてだけなのです。」(seminaire 7, p.253)

 ということで、前回前々回と、友人の家の赤ちゃん見物から、「再生産-循環」と「生産-剰余価値」という問題にまで一足飛びに話を飛ばしてみたのでした。ものすごくさらっとまとめると、母乳とうんちというごくごく当たり前の食物の流れ(ああなんて唯腸論)のなかに、うんちを誇らしげに自分の生産物、作品とみなしてにっこりの赤ちゃんと、その健やかな快便ににっこりのお母さんお父さん、という、人間的側面がオーヴァーラップしてくる、ということです。

 冒頭の引用箇所は、そのオーヴァーラップについて説明してくれています。

 シニフィアンシニフィアンと喧しい時代はもうちょっと昔のものになりましたし、無からの創造とラカニアンがちょっと抹香臭いことをいうのも遠い昔になりましたが、要するにここでの不思議は、物と記号の重なり合いは《他者》の意志という表象不能の要素で裏打ちされているということであり、ほんでもってその《他者》の意志というときの《他者》の典型というか大親分というか、それはまあ神様でもよかんべえ、ということです。まさに考える物、思考する物自体としての神様。

 それはまあさておいて、話を元に戻すと、この物語の登場人物は約二名、ひとりは≪他者≫の欲望であり、もう一方は対象aとしてのうんち、ということになりましょう。というか、昔から(あんまりよいクライニアンでなかったということもあって)必ずしもよく分かっていなかった糞便、乳房といったラカン対象aの実例としてあげるものが、ああまことそのとおりであることよなあ、と実感したというのが、この話のモチベーションであったりします。

 この世界の中の過剰、それは、《他者》の意志です。もっと厳密にそれに対応するものをあげれば、それはあるいは《他者》の享楽であり、自分自身の喜びであるかもしれません。つまり、うんちとおっぱいの流れ、再生産と循環に、なにか余分な意志を付け加えることで、それを特別な喜びにしてしまうこと。親にとってはそれは「いっぱい出たね〜」という、子供の健やかさに対する喜びでありましょうし、子供にとっては自分の生産物、いっぱいでたうんちに対する誇りでしょう。

 面白いのは、この《他者》の意志というのは、ある意味では唯物論の必要性を生み出しているということです。

 ラカンの冒頭の箇所もある意味ではそのまんまそのことを描いているわけですが、再生産のあますところなき(ということはエントロピー0の)循環は、もうそのまんまヴァーチャルと同じ、と言ってしまいたくなるほどに(というかむしろヴァーチャルという言葉の持つ真の意味はそこにあるのかしらんと言いたくなるほど)残り滓を、余剰をださないものです。機械で言えば廃熱がない。いや、赤ちゃん体温高いけどね。だっこしてたらもう暑くって暑くって。

 ともあれ、次回はこの冒頭の引用を中心に、もう少し考えていきましょう。