出会い系ファルス

 さて、われわれはここまで二回、愛の文字あるいはラブレターについてのラカンのご託を拝聴してきたのでした。
 ここまで見る限り、愛の文字は、二つの主体の間の関係の不可能性、書かれないことを決して止めないその性格が、何かを、あるいはあるひとつの「真の言le dire vrai」という偶然性の生起によって、つかの間ではありますが、ある種の結びつきを可能にするものへと変容していく、というように描かれてきたように思われます。

 ちょっと長いですが、ラカン本人のまとめを引用しましょう。


偶然性、私はそれを「書かれないことを止める」によって受肉化しました。なぜなら、そこにあるのは出会いに他ならないからです。諸症状や諸情動、あるいは各人におけるおのが亡命地の痕跡、主体としてではなく語る者として彼の亡命地の痕跡、つまり性的関係からの彼の亡命地の痕跡を印す全てのものに、パートナーのもとで出会う、そういうことです。この裂け目に由来する情動によって初めて、何かが互いに出会うのではないでしょうか。知識という側面から見れば、それは無限に変化するものです。ですがとにもかくにも一瞬は、性関係が書かれないことを止めるという錯覚を、この何かが与えてくれます。何ものかがただ単に分節化されるというだけでなく書き込まれる、つまり各人の運命に書き込まれ、ひとときの間、ひとときの未決定状態、性関係であり得たであろうものが、語っている存在においてその幻影的な痕跡と道とを見出だすという錯覚です。否定辞の移動、つまり「書かれないことを止める」から「書かれることを止めない」への否定辞の移動、偶然性から必然性へのこの移動、それこそがあらゆる愛が結びついている未決定の瞬間です。
 あらゆる愛は、「書かれないことを止める」ことによってのみ存続するのですが、「書かれることを止めない」へと否定を移行させる傾向にあります。つまりあらゆる愛は止めないし、止めないだろうということです。(seminaire20, p.132)

 ラカンの中ではかなり美しい瞬間、と個人的には思うのですが、どうでしょう。
 でも、だとすると、この偶然性の契機、それは分析においてはどのようなものとして生起してきたのか、そしてそれと認識してこられたのかを、最後に確認せねばなりません。


 ではさっそくラカンから。彼はこの問題に関して同じような指摘を二カ所でしています。そこから引用しましょう。


この種の寄生物、つまり身体の付属物、これは分析的ディスクールではファルスと呼ばれています。これは栓をするものです。正確に言えばそれは享楽、ファルス的享楽です。このおかげでこのディスクールはそれを想像的なものから分かつことができるようになる、つまり象徴的去勢が可能になるのです。それがまあ何にせようまくいったり失敗したりする、という事態を引き起こしうるのだ、ということ、それ以外のものではありません。だいたいの場合は失敗しますが。しかしこれは少なくとも二つの主体の間に何か関係らしきものをうち立てます。つまり、書かれないことをやめるもの、なのです。(1974.2.12)

むしろ偶然性としての様態範疇です。必然性は不可能性と対になっていて、「書かれないことを止めない」は不可能性の表現であることをお考え下さい。、あってはならないだろう享楽が生ずるのです。これは存在するはずもない性的関係の相関物です、そしてこのことがファルス機能の本体です。(seminaire20, p.55)

 そんなわけで、精神分析という言説、つまりフロイトがヒステリーを通じて見出したもの、何か読み解かれるべき、暗号で書かれたもの、が存在しているということの意味がここに見出されます。
 このあと、つまりこのファルスという文字、あるいは文字を書くもの、筆、を通じて、S2としての無意識的知が書き込まれます。これは、現実的なもの、つまり、現実的なものとしての身体をフル活用する、ヒステリー者ならではの戦略を採ることになるでしょう。ですから、そこに、その澱に囚われすぎてはいけないのです。問題はその流れを切り開いた真の言。あってはならない偶然性の享楽、がここで書き込まれる、その瞬間を捉えることの方が大事なのです。またある意味では、ファルスとは言葉、真を言うこと、が、恐らくは身体というページに、文字を書くこともある、という事実を引き起こすものである、という意味でもありましょう。この時期のラカンにとってのファルスのシニフィカシオン、といってもいいものかもしれません。

 もっとも、そのファルス的享楽との関係は、男と女では一緒ではありません。男たちはこの享楽、異物ないし寄生物のもたらす享楽が自らの身体にあることに満足しています。しかし、一面でそれは真を言うこと、言dire、によって支えられているものである、という二重性を帯びていることを忘れてはいけません。そんなわけで、ラカンはいいます。


男にとっては、愛とは、つまりついて回るものであり、想像的なもののカテゴリーに位置づけられるものであり、男にとっては言direなしにうまくいくものです。なぜなら男にとってはその享楽で十分だからです。だからこそこのために男は何も理解しないのです。しかし反対に女性にとっては、全く別の傾向でものをかんがえる必要があります。もし男にとっては享楽がすべてを覆うが故に言なしにうまくいくとしたら、そして愛については何の問題もないということになるのなら、女性の享楽は言なしにはうまくいきません、つまり、真理の言なしには。今日はここで終わりです。(1974.2.12)

 男女のもつれ。結局は、あんまりそれは解消しないらしい、ということでしょうか。せっかくですから最後は、ラカン本人が、最初に引用してから約二十年の時を経た後に、あの愛の壁の詩に再解釈をほどこした箇所を引用しておきましょう。


男と愛の間に、世界がある。つまり、それはまず女によって占められていた領域をカバーするのです。右側にFと書いてあるところですね。そのために、我々が男と呼んでいるものは、時として、自分が世界を知っていると想像するのです。知っているというのは聖書でいうような(女を知るというような)意味で、男は世界を『知っているconnaitre』のです。つまり、非常に端的に、私の図式の中ではここに、Fと書いてある、女性のいた位置に現れてくる知への夢のようなものです。トポロジカルに問題となることを即座に理解させてくれること、それはついで、『男と世界の間』というときのことです。この場合の世界とは性的パートナーの気化したものへと置き換えられるものです。どうしてそうなるかといえば、またあとで見ることにしましょう。さて、『壁がある』つまり、私がいつだかシニフィアンとして、真理と知との間の結合として導入した、この綴じ目がそこに作られます。それが切断される、とはいいません。そこに壁があるといったのはこのパプアニューギニアの詩人です。それは壁ではありません。単純に去勢の場なのです。知は真理の場を手つかずのままに残しておく、そのようになったのはそのためです。単純に、見ておくべきは、壁は至る所にあるということです。」1972.1.6.

 一応図を貼っておくと、こうなります。第一回目の再利用ですね。

男|壁|世界|女|愛

 さて、世界は女性。世界を知ることと女性を知ること。男はそれを混同します。男の側にとっては、見いだされるものは、知以外の何かを目指すことの不可能さ、とラカンはいいました。異性の知、それは不可能であると。その代わりに、男は世界を知ることになります。
 しかし、世界と男との間には壁があります。ラカンは端的に、それを去勢だといいます。幸いなことにわれわれは、一方でそれが壁に穴を明け、そこにある意味ではそれが栓をする、そんなものとして描かれていくことをある程度確認することが出来ました。無意識的知は現実的なもの、症状として、澱のようにその穴に残り、やがてそれをふさいでいきます。つまるところ、ファルスの自閉的な、自慰的な享楽、ラカンの言葉を借りれば「愚か者の享楽jouissance de l'idiot」(seminaire20, p.75)へと閉じていくのです。しかし、同時にそれは、それでもやはり世界への開けの瞬間でもあり、また自らの言によって、つかの間の偶然の出会い(おおかた当てははずれるものだ、と御大は曰わってはいますが)をもたらすものでもあります。
 愛の文字と愛壁の文字。lettre d'amourとlettre d'(a)mur。それは、この隠された愛、窪みとも空隙とも言われた愛を、男女の間でどのように形にしていき、その関係性のなさをつかの間補ったのか、その文字であり、それはある「語り」という行為の痕跡だ、という風に言っても良いのでしょう。


「分析では欲望は身体的な偶然性によって書き込まれたものと考えます。」(seminaire20, p.86)
「ファルスの機能の見たところ明らかな必然性が実は偶然にすぎないことがあらわになるのです。ファルスの機能が書かれないのをやめるのは偶然という様相論理によってです。偶然性とは性関係を、話す主体にとって出会いという制度以外のものではなくしているものが集約する点です。」(seminaire20, p.87)

 いや、ファルスは出会い系、といっちゃっていいのでしょうか。。。

 それだけじゃ寂しい、というかたのために、ハイデッガーの言葉を引用しておしまいにしましょう。


偶然的なこと(Zufalige)というのはすべて、われわれにとってはただ、われわれがこれを待ちつづけた場合にのみ、また、待つことができる場合にのみ、いつか起こるかもしれないことになり、また実際起こる、というだけのものである。しかし待つことの力を獲得するのは、或る秘密を尊敬するような人だけである。