約束はいらないわ?

 さて、前回に引きつづき、ドゥルーズに学ぶ主体の作り方、第二回がやって参りました。ん、ベルクソンの話もいれると四回目ですね。

 ここまでのドゥルーズの議論を追っていくと、そろそろ主体を特徴づける主体性を考えてみる必要があることになります。ドゥルーズはこういいます。所与から、知性に与えられていない他の事物の存在を推断する。私は信じる。知っている以上のことを肯定する。このことで所与を超出する働きとして自分を主体として定立する。この前者の力を、信念と呼びましょう。他方、道徳的判断、美的判断、社会的判断によって、現働的な行使から独立した能力、つまり自分自身の偏りを超出することで、人為や考案が可能になる、と。こちらは考案と呼びましょう。ついでながらいうと、前者の原理は想像に起源をもつ虚構、と呼ばれていますし、それは一般規則をもたらすものです。後者では虚構の力はある原理の力であり、ここでは想像はものごとを構成し創造するものへと生成している、ということになります。(115-122)
 ついでながら、ここを支えるのが以下による本能の定義です。「人間は本能を有していないがゆえに、また人間は本能そのものによって一個の純粋な現在の現実性に隷属させられるのではないがゆえに、人間はみずからの想像の形成力を解き放ち、おのれの傾向をまったく直接的に想像に関係させたのである。したがって、人間において傾向が満足させられるということは、傾向そのものに即した事態ではなく、反射した傾向に即した事態なのである。そうしたところに、本能とは区別される制度の意味がある。」(56)これについての疑義は前回のしっぽでちょこっと触れましたからさておくことにして、ここで重要なのはむしろ制度、という言葉のほう。あとあとまでドゥルーズに、そして少々文脈は違いますが制度論的精神療法、というときの制度という言葉の意味づけとしても大事になってきそうな、この制度、ちょこっと念頭に入れておきましょう(そういえば、トスケルほかがこの「制度論的」という言葉を用いたとき、もしあるとするならその典拠はどこに求めたのでしょう。ご存じの方いらっしゃいましたら教えてください)。ともあれ、その本能に関する考え方をもとに、「彼の主要な考えは、社会の本質は、法ではなく制度であるということだ。事実、法は、企てや行動の制限であり、社会に関してはその消極的な面しか考慮にいれないものである。・・・制度とは、行動のモデル、正真正銘の企て、積極的な諸手段の考案されたシステム・・・」(49)というような発想が導かれます。

続きを読む