春雨

いざ書こうと思うと案外公開に耐えるような文章は思いつかないもので、ふんぎりのつかないままずるずるとここまで来ました。
基本的には読書雑記を備忘録的につけつつ、読書会等で読んだ文献に関してはある程度のまとめや討議のたたき台になれば、という以上の目的はありません。
地球や人類に余り有効性のない情報を垂れ流すのはいささか気が引けますが、そこは春雨に誘われた、ということで、まずはご容赦。


読書会の記録から:LacanのL'Envers de la psychanalyse, p.147

今回の要諦はagentという言葉の意味の変遷です。セミネール4巻のころは、「能動主」「動作主」といったいささか苦しい訳になりました。しかし間違っているわけではありません。あのころこの言葉には「執行人」とでも言いたげな響きがありました。去勢の執行人、剥奪の執行人etc...

17巻の現在ではそのニュアンスはおおきく異なります。p.146の第三節冒頭の文章が意味しているように、それはディーラーや広告代理店のような、我々がイメージするとおりのエージェント。このあとセミネールでご老体の連想はスパイの方のエージェントから何から自由に駆けめぐってしまい、またしても我々は話から振り落とされるのですが、さしあたり「父は権威の執行人から広告代理店のパパへと変遷した」ということだけ覚えておきましょう。

17巻はきわめて社会学的、それもその当時目の当たりにした社会の変動を構造的に把握する、という野心がそこここに現れています。かの4つのディスクールほかも、表面的な記号操作のおもしろさ、あるいはややこしさをとりあえずすっ飛ばして、そこでとらえられようとしている社会、1970年の社会を見据えて読んでいきたいものです。

さて、ここからはちょっと面倒な話。では、S1こと主人のシニフィアンの位置はどうなるの、という疑問にたいするさしあたりの試案です。

権威の代理執行人としての父をS1とするならば、それは謎めいた権威、権威の根拠は問うてはならない、といった謎のシニフィアンとしてのS1です。
他方で、代理店の父をS1とするなら、それは「何はともあれそれを享楽すること=購入し消費し、そのライフスタイルに従うこと」を命じるS1です。こちらも根拠はありません。

そうすると、知のシニフィアンことS2はどうなるのでしょうか。前者においてS2が文字通りS1を後付けし、知的正当化する知であるとするなら、後者はむしろ「模倣の強要」とすべきでしょうか。それがさしあたりの仮説です。代理店の根拠付けなんて所詮「これ絶対流行りますから」でしかありませんよね(偏見かも・・・)

知の大衆化ではなく、知が大衆となったこと。それは、この当時の知識人が知の根拠をつねに大衆に求めたことを、どこか想起させます。まあ、しかし、それはまた別の話。