さくら

日中はすっかり春の陽気ですが、風の中にわずかにのこる冬の名残を警戒して、一枚余分に羽織っていったものの、それでもやはり夜桜には少々肌寒い晩でした。

さて、今回はデカルトのコギトに関して。なにやら壮大ですね。

いわゆる、フーコーvsデリダのコギト談義は、ものすごく私的な関心に引きつけてのうえでの解釈ですが、表象の創造能力についての議論だと思うのです。
主体が表象を(私的に、恣意的に)創造する能力がある、とするなら、それは当然狂気の可能性とつねに裏表です。
後年のヘーゲルならば、その表象化の能力を、おそらく否定的なもの、という風に呼んだでしょう。ヘーゲルにとって、それが自由と狂気の両面性を担っていることはすでに自明でした。ラカンの初期のコギト解釈にも、その影響は強く残っているように思われます。

その狂気を自由として、そして理性的なものへと結びつけていく装置は、フーコーの再反論に見られる社会的なレベルや、あるいは別に、思想的なレベルで考えることも出来るでしょう。しかし、さしあたり今はそれを論じることはありません。

デカルトの開いたこの問題は、さしあたりデカルトにとっては曖昧だったに思われます。スピノザはその実体論からして、はっきりとそれに反対であったでしょう。他方ヘーゲルは、デカルトの問題系をさらに進めていくことで近代性の条件をあらわにしていきます。

デカルトにとっては、当初は思考実験でしかなかった騙す神、悪しき霊が、逆にコギトを考える上で必然的に経由しなければいけない、必須の媒介項となっているという事実、今はそのことの方が重要です。悪しき霊とは、世界を恣意的な表象に還元してしまう一つの装置です。そしてコギトは、この装置が存在し得ないということを告げることによって確保される、と見るか、それともこの装置は必須のものとしてつねに存在し、そしてそれを絶えず否定すること、その一連の運動によってコギトが成立している、と見るかが、フーコーデリダの真の対立項ではないでしょうか。

ともあれ、ここで、「内に恣意的で妄想的な自家製の表象を創造し蓄え、外に客観的で科学的な体系化された世界の表象を看取する」近代的主体が成立することになります。
フーコーの議論が、後者による前者の抑圧に重きを置くものであるとするなら、デリダの議論は、前者が後者の条件になっている、という点に重点が置かれています。このデリダの着想の源は、あるいはハイデガーの『世界像の時代』ではないかと思われます。
ハイデガーは、世界を表象に還元する運動が、同時に価値化、体系化の運動でもあることを指摘しています。とはいえ、それがなにゆえであるか、そのメカニズムは何か、といったことについては、またいずれ。