梨咲くと

葛飾の野は との曇り

だれの俳句だろうということはどうしても思い出せなかったのですが、水原秋櫻子らしいですね。グーグル偉大です、ありがとう(その偉大さ故のいろいろ問題もあるらしいけど)。
梨の花の満開の中、小雪の舞う中生まれてきた、らしい姉の話を聞かされているせいでしょうか、どういうわけか良く覚えている句です。小学校の国語の教科書というのも馬鹿にならないものですね。

もっとも、今日見てきたのは梨ではなく桜です。との曇りの桜は空に綺麗にとけ込んで見えなくなってしまいますが、それはそれでけっこうなものです。
夜半の豪雨でかなり痛んでしまいそうですが、満開にはあとちょっとありそうな若者の桜花ですから、全部散ってしまうということもないでしょう。

今日は珍しく精神分析プロパーなタームから。象徴等式symbolic equationです。ハンナ・シーガルですね。On symbolismだったかと思います。

分析では周知の通り、隠喩であったり換喩であったり、あるいはもっとおおきく象徴的な表現という話題であふれかえっているわけです。なんちゃらはなんちゃらの象徴です、というのは、もうほとんど笑い話のようにみなさんご利用なさっておられます。できれば計画的になさったほうがいいかもしれませんね。

ですが、その象徴的な置き換えという能力そのものが、精神病圏では機能しないというのがシーガルの論点。もの凄く簡単にパラフレーズしてしまうと(いいのかわるいのかはさだかではありませんが)〜は〜のようだ、が、〜は〜だ、になってしまうということです。こうなるともう、様々な象徴表現の連鎖に乗るどころではありません。

フロイトは昔、ある精神病患者の「にきびのあな」という言葉の使い方について書いたことがあります。神経症者ならその穴は女性性器の象徴として、象徴的な表現として利用されることもありましょう。しかし、とある精神病者にとってはそれはそれそのものであった、と。

この種の特性はその後ビオンのα要素β要素の議論でも詳説されます。

ですが、ここで考えたいのは、それでもやはりこの象徴等式的な能力は、象徴的な秩序の根元にあるものである、ということです。遠く離れたものを、あるいは偶然そこに隣接したにすぎないものを、ひとつの関連の中に、同一性の徴の元に置くことができるということ。その能力は、詰まるところ両義的なのです。一方では象徴を生み出す創造性の根元です。ここでは、それは何を表しているのか、シニフィアンシニフィエは何なのかを考えることは全くの誤りです。シニフィアンを能産していく能力こそがここでは重要です。しかし、他方では象徴表現の連鎖をせき止めてしまうくさびでもある、と。

問題はその両義性が、どちらがどちらに転ぶのかを決する要素は何なのか、ということです。
でもそれはまたこんど。