バグパイプ

まさに桜満開春全開の陽気ですが、我が家にはそんなまことにジャポネスクな季節とは少々場違いな闖入者が。
いや、べつにひとではありません。音です。バグパイプ

去年の秋口あたりから、でしょうか、あるいはもうちょっと前からだったでしょうか。謎のインド人(当社推定)、河岸で無心にバグパイプ。河畔から我が家までは多分直線距離でも100mほど、人家も道路もそれなりに詰まった上での100mですから、結構な距離なのですが、それをものともせずにバグパイプ、聞こえてきます。
あれ、相当ばかでかい音がするものなのですね。
通奏低音のリズムが次第に高揚していくあたりなど、なかなかの名手なのではないかと思いますが、まあバグパイプのことはよくわかりません。

バグパイプのピッチの取り方は、どういう感じなのかな、などと思いつつ、古いカザルスのバッハを聴いていました。Opus蔵の復刻です。まあ録音マニアではないし、何がどう良くなったのか言ってみろ、といわれれば、うまい言葉も見つからないのですが、確実に聞く楽しみは増えました。チェロ弾きとしてのカザルスが、より想像しやすくなった、ということは確かに思えます。

今日のネタはこのへんから。音程の取り方です。
カザルスの音程の取り方は周知のように、少々極端です。ピッチが悪いと思う人も多いでしょうが、極端、というほうが正確でしょう。ピタゴラス律的な音の取り方を、平均律からどの程度ずらすのか。それは、旋律線のテンポなどに応じて変えた方がよい、というのがカザルスの持論でした。ただ、それがいかにも極端なのです。

今回の仮説は、録音世代は確実に平均律的な取り方を好む、ということ。
そして、それは曲そのものの聴取の形態が、ひとつひとつの前後の相関関係を追いながら聞いていくリアルタイムな聴き方から、あらかじめ音楽の総体を念頭に置きながら、それを構成するブロックをはめ込んでいくように、音を聴取する方向に変化しているからではないか、ということです。

現場的に、ひとつひとつの音を一つずつ拾っていくような聴き方をする場合、カザルスの音の取り方は決しておかしくないと思うのです。音程の取り方だけではなく、それはメンゲルベルクの旋律の歌わせ方など、より広い範囲でもいえることです。

ですが、我々録音時代の世代は、何か違う聞き方しか出来ない。それは、単に学校教育と電子楽器によって平均律的な音の取り方に慣れすぎた、というだけではないのではないかと。

とはいえ、その聴取の構造的差異を明確に表現することはまだ出来そうにありません。難しいものですね。

このアイデアを思いついたのは、実は録音になったときと、ライブで聞いていたとき、その印象の違いについて考えたときのことでした。

ライブで聞いているときには全く気にならないような些細な音程のミスなどが、もの凄く気になるのですね、録音では。
極端な話、一つの音程のミスは、なんだか曲全体のつくりをがたがたにしてしまうような印象さえあったのです。

聴取の構造などというややこしい着眼からあえてこの話を持ち出したのは、そんな経緯があったからこそです。
一つの音程のミスが曲全体をがたがたにしてしまう、ということは、われわれが、一つの音を曲全体の構造の中で厳密に配置しながら聞いているから、ということではないかと。

そのとき、ライブと録音では聴取の構造が違うのではないか、ということに、思いをはせたのでございました。ライブだから、興奮していたから、場の雰囲気に流されて、等々、もっとわかりやすい理由もありそうなものですが、ここはあえて。

それを、音程の取り方の感覚にまで広げるのは、まあもちろん強引なのですが、そうすることで見えてくるものの可能性を探して、仮説として残しておくことにしました。
理論の楽しみというのはそういうところですしね、と、ちょっと自己弁護。。。