花冷え

一雨ごとに、と良く申しますが、昨日今日の雨はどうも一雨ごとに暖かくなる、というほうではありませんでした。まさに花冷え。花散らしの雨にならなかったのがせめてもの幸いです。
この夜の冷え込みようなら、思ったより桜、保つかもしれませんね。

さて、今日の小ネタはいつもにも輪を掛けて電波なお話。知と著作権とフェティッシュという、みるからに強引な三題噺です。

むかしから、自分のオリジナルな思索というものがあるのかについては、実のところかなり疑問に思っていました。わたしを構成する言葉は全て他者の言葉ですし、仮に私の独自性というものがあるのだとすれば、それはその諸々の言葉が織りなす複雑な織物の中での、一つの特異な織り目、交点としての独自性だろうからです。いってみれば、ミックスの独自性であって素材そのものの独自性ではない、ということですね。
そして、そのミックス、配合の仕方が個々人の歴史に依拠するたぶんに偶然的なものであるがゆえに、独自といえばいえなくもないのかな、と。


そんなわけで、人の知は全て公開され共有されて、その網の目の密度と豊かさを増していくべきだ、とさえ思わなくもないのですが、まあそこから先はまた難しい問題があるのでしょうからまた別の話で。

で、そこからなんでフェティッシュにまで話が飛ぶのか、ということですが。
知を個人の内部という閉ざされた私秘的空間の中で発生するものであると考えるとしましょう。この場合当然、その知には所有権を主張することも出来ましょうし、その内部に入り込んでくるものをプライヴァシーの侵害ということもできましょう。
もっとも同時に、脳内の妄想であるとか、お前の中だけで〜だ、だとか、そういった狂気の可能性ともお近づきになってしまうことになります。ヘーゲル的な自由と狂気ですね。

でももし、そうではなく、自分の知を自分を取り巻く世界の知の織物の一つの交点であると仮定するなら?そうすると、個人という内部で知という表象をぽんぽこぽんぽこ発生させている主体からは離れて、ネットワークの密度やトポロジーこそが知を定義づけることになります。

問題なのはこのときで、発生装置としての主体と派生物としての表象という観念を離れてしまうのであれば、知は主体とその表象とに還元される必要は全くなくなってしまうということなのです。
電柱からドアノブに至るまで、それは一つのネットワークを形成するものであるかぎりで、私の知の構成要素の一つです。
そうなると、ミシンとこうもり傘が手術台の上で出会うことが、私の思索である、ということにならないかしら、と、ちょっと夢想するのです。

ビオンの患者には、机を動かすことが考えを動かすことだという人がいたそうです。その詳細は報告されていませんが、あの机を前に出すとこういう思考操作(前向きに行こうとか)横に倒すとこういう思考操作・・・なあんてことにはならないかしら、と、こちらもちょっと妄想を。
ここまでいくと、フェティッシュって感じでしょう?

そのスタイルはなにやらちょっとばかげているように見えて、あんがい思考の本質を、それも我々に隠されている本質をあらわにしてくれている可能性はないものかと、思ったり。
タルドとその再評価をするラトゥールらに、よく似たような観点があるようにも思われますが、その内容を詳論するのはまた別の機会に。