旬のもの

春の宵からこんな選曲もどうかと思いますが、なぜかふっとツィンマーマンのラフマニノフのコンチェルトを聴いていました。
各声部がこれだけクリアに聞こえるのはまれじゃないかな、というのと、低音の異様なまでの充実っぷりと、いろいろと聴き応えのあるいい演奏で、やはりだんだんと代替わりが進んでいくピアニストの世界で、これから確実に代表的存在になるんだろうなあ、というかんじでしょうか。

で、ツィンマーマンさん、ライナーノーツのインタビューでちょっと面白いことを書いています。
このコンチェルト、初恋のイメージなのだ、と。
まあ、幸いにも先生は昔からなかなかの美男子でいらっしゃいますから、こういうこといっても様になりますが。。。

とはいえ、人間には一生に一度奇跡的な偶然が積み重なって結晶化する、そんな作品がある、という意味で初恋という言葉を考えるなら、誠にその通り、という気もします。

その種の作品でいつも思い浮かべるのは、デュ・プレのエルガー。バルビローリとやった方ですね。
御大、「彼女はちょっとやりすぎじゃないですかね?」という指摘に「若いうちはやりすぎくらいでいい、じゃなきゃなんで年をとる必要があるんだ?」とのたまわったそうですが、まことにごもっとも。
エルガーではありませんが、デュ・プレと組んだ作品の映像からは、彼女が見るべきところは見る、音に没頭するところは没頭する、で、見事にコントロールされていたことを思い出します。

後年旦那のバレンボイムとやった方は映像も残っていますが、彼女の妙に荒れた音と若き日のバレンボイムのハッタリ臭いあまり意味のわからない指揮とで、どうも好きになれません。

あれはやはり、バルビローリとのディスクの中に、二十歳の女の子の出会いの時が、相応しいときに訪れていたということのように思われるのです。

中井久夫はよく「カイロス」といいますし、ラカンは「出会い」rencontreといいますし、ユングならシンクロニシティ、というでしょう。フロイトもまた、分析の中での妙なタイミングの良さを、テレパシーかしらん、などと思いながら考察していたようです。

西洋的な真理の概念というのは、まあいろいろご意見もございましょうが、基本的にはいつもいつまでもどんなときでも真であるもの、というのも一つの重要な特徴である、と思うのです。
で、いつもそのことを思うたびに、時間性を真理の中に繰り込もうとすると、どうなるのかなあ、と、思いをはせるわけですな。

その一瞬だけ真であるもの、それは真と呼ぶには軽すぎるのでしょうか。そこから、イデアであったり、あるいは存在であったり、まあいろいろ真理の永遠性を導く努力はすすめられるわけです。

でも、そうではないかたちで、この一瞬だけ真であるものを、真であることの最大限の重みを持つものとしてとらえ直すすべはないものかなあ、と、思うのですが、まあ多分思いつかないと思います。いまからギブアップ。。。

そんなわけで、旬のタケノコを先日買って食べました。
おいしいわ。
時間性と永遠と真理とはなかなか出会ってくれないようですが、タケノコと私の胃袋と舌鼓は確実に食卓の上で幸福に出会ったようです。