血液型

先日友人と話をしていたときのこと、酒も入っていたせいでしょうか、話は流れ流れて血液型に。
わたしは全く無知なのですが、先日のあるある大辞典かなにかでも取り上げられた、とかいうことで、その手の話大好きっこな友人のハートに火がついたようです。。。

まあそれはいいのですが、その友人が多少の弁解も交えていうには、血液型などを聞いてだいたいの性格を予想して、どう対処するのかある程度の雛形を作っておくのだとか。
いや、対人関係の型が4種類しかないというのは、ちょっと考え物ではないかい、と、からかいながら、案外この友人の指摘は面白いところを突いているのではないかと思い直してみました。


よく言われることですが、比較的未発達の、といわれる社会において、狂気はかなりはっきりした型をとります。発症は急性ですが、予後は比較的よかったりね。
で、治療者と患者の間の社会的なメッセージのやりとりを強引に通訳すると
「あかん俺もうだめっす、おかしくなるっす」
「わかった、止めはしないがとりあえず、いくつか型を提示するからこの種類のなかからどれかを選んではくれまいかね。受け入れる方にもう準備ってやつがいるからさ」
「そうっすね・・・この狼憑きってパターンがいちばんしっくり来ます」
「じゃあそれでおねがい。こっちもそのマニュアルで対処するから」

なあんて感じでしょうか(まじめな医療人類学者、文化人類学者のみなさんごめんなさい)

それはいってみれば、社会の側が狂気を認定することが、同時に、その受け入れ型の様式を決めてあげる、ということでもあります。
トビー・ナタンほかの主張によれば、近代の精神医学の欠点は、診断はしてくれる、薬や治療はしてくれる、でもその診断をされたことで患者はどうなるのか、という点についてはまったくノータッチだ、ということです。
まあそれが近代医療のあり方なのですから、しかたないっちゃしかたない、そっからさきの残りは社会の側が考える問題なのですが、社会の側は今度は「なんちゃら委員会」や「諮問委員会」をつくって、対処法まで専門家集団に丸投げ、だったりしますしね。

というわけで、相変わらず話は飛びまくっていますが、対人関係についても、同じようなことは言えたのかもしれないと思うのです。
もちろん人間は大昔から一人一人うんと違う生き物だったでしょう。でも、たとえば社会的な規制や倫理、道徳などが、その人間の表現様式をある程度規定する代わりに、どのように受け入れるかは責任を持っていてくれたようにも思うのです。

さいきん、中沢新一氏が「対称性」という概念を提示しています。もとはラトゥールやスタンジェールほか、いろいろと元ネタもありますし、またいろいろな文脈で使われてきたものでもありますから、余り単純化は好ましくはないと思うのですが、一言で言えばその対称性とはこういうところにあったような気がします。

そうそう、さきほど引っ張り出してきたナタンあたりはラトゥール経由ではっきり意識的に対称性を念頭に置いていますね。

まあそんなこんなで、ひとは自分で自分の個性を発揮し、また人の個性をそのひとのあるがままに受け入れなさい、という、近代的メッセージを受け取ると同時に、血液型やら星座やら、自分を勝手に規定しに来るけどある程度受け入れ型も決めてくれる心休まる制度を必要としているのかも、と思ったりする次第です。

でもその友人、B型はB型は、って、どうもB型がお気に召さないらしく、悪口を並べた上に、わたしは典型的なB型なのだ、と。。。

う〜ん、受け入れられてるのかしら。。。