くれなゐの

二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る

正岡子規でしたね。これも子供のころの教科書だったような気がします。我ながらおそろしく文学に無知無勉強であることがよくわかりますね。そして、ガキがなんといおうと名作を子供のころから無理から詰め込んでやれば、出来損ないでも多少なりともブンガクのかけらくらい植え付けておけるものだと。

それはそうと、今日はたぶん、今年初めて、雨が降っても冷え込むことのない暖かな日でした。こうした日にはこの歌をどういうわけかいつも思い出します。もっとも薔薇ではなく桜と柳を濡らす雨でしたが。

さて、今回は読書会のノートから:LacanのL'Envers de la psychanalyse, p.148〜から
外でせっせと稼ぐ、家に帰ってからはいい人、いいパパとして愛されたいと望む、そんなパパについてです。。。


フロイト的な原父像が、こんなパパから出てくるわけもない、と、ラカン先生これはまことにごもっともな指摘。原父の像は言語から、つまり言語的構成ブツとしての父から来るものだ、と。それだけが現実的な父として機能するのだそうです。
一見するととても象徴的な父に似ていますよね。このあたり、これを現実的なものと表現するようになったラカンに、理論的な変動の兆しがあるように思われます。でもそれはまた別の機会に。

じゃあ現実的な父とは?精子かね?とラカン先生。まあ、いまのとこ精子を父とはいわないでしょう、そりゃ血液鑑定やら何やらあるけどね、と。このころはまだ遺伝子鑑定なかったのですねぇ、さすが70年、と、いらんところでちょっと感心。

まあ、そんなわけでちょっと話がやばいところにはいっちゃったけど、まあいいでしょ、と先生はのたまいますが、先生、我々はもしかしたらそのやばさが日常な世界に生きているのではないでしょうか。我々の間に横たわる30年の歳月は、どのあたりまで我々を連れて行ったのでしょう。

精子バンクがあれば父親はいりませんよね。そうすると、生まれた子はやっぱり父親は精子、でしょうか。あらあら。(でも実際には、やっぱり精子の製造元の男の情報を知りたがったりする、とルポを読んだ気もしますが、どうなのでしょう)
代理母がいる、ということは、お母さんも卵子、と考えないといけないのでしょうか。

養子だったら父親、ないし母親は不在かもしれないけど、だいじょうぶ。それはもちろんのことです。これが養子であれば、親子の間は純粋に象徴的な行為として構成されるわけですから。
じゃあ、片親なら?この場合は、現実に父親ないし母親はあなたの親です。でも、やっぱりそこにコウノトリから神様にいたるまで、諸々の授かりものの授け手の介入する余地があります。パパ、ママ、そしてこの誰か。いわゆるエディプス批判では、パパ、ママ、ボクらしいのですが、本当のエディプスはこの「だれか」がとても大事。

問題なのは、現実的な要素が全てある一人の人間のコントロール化におかれてしまっている、そんなケースが出始めた、ということのほうでしょう。
まあ幸いにも、どんな母親でも自分で精子がだせるわけじゃなし、とか、仮に自分の意志で拾ってきた精子を使ったにしても、どこでキアズムがおこるかとか、どの遺伝子が発現するかとか、諸々神様の介入する余地はある訳なので、そこまで心配する必要はないのかもしれません。

《他者》Autreの欲望、父の欲望、あるいは分析家の欲望。それはどこかこうした種に似ています。あら、子種?いや、まあそれだけではないのですが、そうしたたぶんに偶然性と、コウノトリさんの介入の余地を残しながら、それを包み込むようにして手渡され手渡され伝えられていくもの。

分析家の欲望、それがフロイトの夢であるとしたら、われわれはフロイトの夢の伝言ゲームを繰りかえしていることになります。そこで伝えられるのは?こうした種たち、ではないでしょうか。

90年代の後半のセミネールだったと思いますが、ラカン派の総帥、ジャック=アラン・ミレールは、試験管ベビーはいいとしても、精子バンクのようなのは反対だ、というようなことを述べていたと記憶しています。
それは、ここでいうような偶然の偏差としての欲望の余地を開いておくこと、という趣旨が反映していると私は思っています。
とはいえ、この流れがその反論で止まるとも思えません。であるとするなら、我々が持っているべきは、どのような状況、どのような制限のもとであれ、この空間を残すための倫理なり、哲学なりを維持しておくことではないでしょうか。