美女の条件

今日はちょいと初仕事の場所に行って来たのですが、ビックリするぐらい良い天気でした。
名にし負う柳が綺麗。本当に、この時期のつかの間だけの美しさです。女性の美と一緒ですね、といったら怒られましたが。
でも、中国では柳眉柳腰ほか、柳と言えば美女のことです。堪忍してください。

さて、このブログもブログである以上、ネット上にあるわけですが、よく言われるように、ネット上のレスの速さは、同時に、よく考えて内面で咀嚼してからものを書いたり、反応したりする力を失わせるのではないか、という問題もありますね。脊髄反射でレスするな!みたいなお叱りも多々。
でも、それはどういうことで、いつまで正しいことなのだろうか、というのが、今回のお題です。


良く思うのです。内面に蓄え、咀嚼し、筋道を立て、そして慎重に表に出すこと。それは、でも、あるいは腹に何かを隠し持っている、二心がある、心の内を見せない、他諸々の諸特性とトレードオフのはずです。
実際、気のおけない人たちと一緒にいて、そこで言葉を取り交わすとき、脊髄反射はそんなに悪いことかなあ、と思うときもあります。

いや、もちろんそれにまつわる諸々の弊害を無視するわけではありませんし、また親しい間柄でもゆっくり暖めた言葉を取り交わすことは、とても素晴らしいことです。
でも、ここはひとつ、ちがうかたちの交流の在り方を。
全員が寄り合いに集まる、そのなかで、みなは脊髄反射で考えも無しにものを言う、でもみなはつねにずっとそこにいて、その無数に取り交わされた言葉の中から次第に浮上してくるある種の流れを捕まえて、共通意識のようなものを形成する。
昔読んだ文化人類学系の書物の中で、そんな話があったような気がするのですが、どうしても出てこないのです。知っていらっしゃる方いないでしょうか。なんて人頼み。

それは我々の社会では、大衆心理であるとか、その催眠的な効果、理性の麻痺などなど、諸々のわるぐちをあつめるようなことなのでしょうし、実際今の我々の社会でそれを行おうとすれば、やはりその批判の通りの結果になるようには思います。
でもそれは、主体の内面性と社会との関わり方が、そもそも全く違う社会でも、やはり同じようなカタストロフィック名結果を招くことなのか、という疑いは、やはり残ります。
そして、もしかして、我々の社会は次第に、「主体の内面性と社会との関わり方」が変わり始めた時期に位置づけられるのかもしれない、と。
そのとき、人はどのように言葉を取り交わしていくのでしょう。

そうはいっても、最後に残る謎、それはどうして、人はある言葉を聞いて、それに反応し、それを模倣し反復し、口ずさみ、言づて、語り継いでいくのか、ということです。
いや、そりゃ魅力がある言葉だったからでしょ、歌だったからでしょ、ってのは、ちょっと手短すぎてずるい感じ。
そして、その反復や模倣の力を、人はどのように我が身の上に宿らせ、それと折り合っていくのか、そのやり方はきっと一つではない、そんなことにまで、ここまでの雑感は、最終的にはたどり着くべきことなのだ、と、そんな風に思うのです。

とはいえ、語り継ぎたい言祝ぎたい言葉はたくさんあるのですが、自分がその作者であったことは、ないですねえ。
ん?もしかして、ここまでの議論から言えば、その作者、なんてものが、ほんとうはあってはいけないのかもしれない、そんな邪心煩悩がいけなかった、のですかね。

ともあれ、今日言づてたいことがあるとすれば、この時期の柳は本当に美しい、ということなのですが。