眠りの神

ってなんだっけ、としばしことしばし。またしてもグーグルのおせわになって、ああ、そうだ、ヒュプノスだ、ということに気づきます。催眠とか、結構専攻領域に頻出するはずじゃん、と、少し反省。
まあ、そんなことを考えるのも、春眠暁を、にしても度を超しすぎた今日の遅寝の責任です。こんなにも天気のいい一日をひどく無駄にしたようで後悔。まあ、ここんとこ結構こんな感じですが。

さて、今回は読書会のノートから:LacanのL'Envers de la psychanalyse, p.149〜ですね


現実的な父とは不可能なものとして定義される、だからこそ、それは剥奪者として想像されるのだ、とラカンは言います。去勢とは、シニフィアンの影響によってもたらされた現実的な操作だとも。
このあたりの定義は、基本的に4巻のときと変わっていませんね。あのとき、 
剥奪(現実的父による象徴的去勢 が想像的ファルスにたいして)
欲求不満(象徴的母による想像的欲求不満が現実的乳房にたいして)
去勢(想像的父による現実的剥奪が象徴的ファルスにたいして)
という定義がなされていましたが、今回の定義もその延長線上にあります。

とはいえ、現実的父が言語あるいはシニフィアンの効果とされることに一つの拡張点があります。4巻の時点で、現実的父とはどこにでもいる、飲んだくれの、ぐうたらな父であったことを思い出しましょう。だとすれば、シニフィアンとはぐうたらなシーニュでしょうか。。。

とはいえ、その欠如が全能に入れ替わる、その想像的なロジックがここでも大事です。欠如は偶発的なものに、それも誰かの恣意によって引き起こされた偶発時であり、それゆえにことその引き起こした人間agentは全能であるのかもしれないと。その時点で剥奪は去勢へと取って代わられます。そして、欲望という図式の中へ、人を放り込みます。

そう、このように、奴は何を考えているのか、という問いに巻き込まれたとたん、人は人の欲望を生きる存在に成り下がってしまいます。それが、ヒステリーの主体の登場の瞬間です。不幸なことに、フロイトの出発点もヒステリー女たちとの交わりであり、そしてジョーンズが報告するように「女は何を望むのか」でした。

ここから、p.150でかの有名な(かな?)文句が出てきます。ヒステリー者の望むこと、それは主人だ、しかし自分が君臨出来る主人だと。君臨すれど統治せず、とはイギリス女王のことですね。でもここでは、彼女は君臨する、彼は統治しない、と主語が二分割されたパロディー版が紹介されています。

そう、主人とは実際には、その「何を欲するのか」という欲望にお答えするべく捻出された一つのシニフィアンなのだとラカンは言います。
ここで問題になってくるのは、そのことによって、真理と知は一体のものではなくなってくる、ということ。

古代社会においては主人とその知と真理は複雑な社会機構の中に織り込まれつつ、一体のものであった、という指摘が実は少し前の箇所にありました。近代とは、その意味で主人と知が分かたれる社会であると。ここでは、知=真理ではなくなった、とラカンは表現しています。女が主人に、自分についての知を産出することを願うように、でも自分に関する決定的な知を手には出来ないことを(そして、それがばれてしまったことで自分が用済みにならないことを)望むように。主人はそこここに発明され、捻出され、その主人のために様々な知がこれまた捻出される。その様は、いまの「社会的要請」に答える形で、権威としての「なんちゃら委員会」が組織され、そして「答申」という形で何の意味もない知をまき散らす様に告示しています。

知と真理のこの分離、それは享楽に引き起こされた障害のためだ、とラカンは言います。自分に関する知を聞きたがる、でも最後のところは決して聞きたくない、その女性的なヒステリーの享楽。このとき、父は真理を何一つ知らないもの、として定義されることになります。知の主体ではありますが。

母親であることは事実、父親であることは確信。それがここに援用出来るとしたら、知とは戸籍から諸々の鑑定から、その本質的な空虚、不確実性をそれでも語る知であったと言っていいでしょう。母親は、母親であるという事実を享楽します。そして同時に、自分とその父親との間の子であるという言説をも享楽します。

もし、我々の社会で今失われつつあるものがあるとしたら、それはこの「確信」の領域なのではないでしょうか。空虚な確信。それはその空虚さの故に嘲笑され、否定され、そして事実検証によって確定された確実な事実のみが根拠とされるようになります。父親であることが、家族問題ではなく遺伝子鑑定の問題になったように。

そのことは、知と享楽と真理という問題にどんな変更をおよぼすことになるのでしょうか。
p.138でラカンは、その弟子の発表を受けながら、精神分析は革命であり自由解放をもたらすのか、という問題をやや否定的に考察しています。それが、精神分析の裏面という今年のテーマの意味するところでもあると。死んだ父は我々に何をもたらすのか。そこで享楽とはどのようなものであり得るのか。

まあ、しかし、それはまた別の話、ということで。