月は東に

月は東に
今日は雨。春雨。川沿いを傘さして歩いていると、中州を占領した菜の花が綺麗。回りの雑草の緑もまだ若いので、黄色とよく融けます。この時期は一日一日の移り変わりが激しくて、書くネタにも事欠きませんね。

なににつられて出かけたというわけでもありませんが、春なのでちょっと浮かれて、誘惑ということについて。いや、したこともされたこともありません、残念ながら。誘ってくれそうなのは春の色だけですが、向こうはそんなつもりは全くなく、ただ移り変わるだけのようです。。。

でも、ここでいう誘惑は、まずもって誘惑理論の誘惑から。

精神分析において、いわゆる性的外傷のはなしは、当初誘惑理論と呼称されていました。性的な暴行虐待あるいは濫用いたずら、などという言葉のない時代です。幼児の性経験は、身近な大人の性的な誘惑によるものだ、とされていました。

もちろん、この言いぐさには少なからぬ詐欺があります。実際に、子供が大人を誘惑したケースもなくはなかったのでしょうが、ほとんどは大人の側が恣に子供にたいして行ったこと。その意味では、この言葉はまあ、詐術です。

とはいえ、この言葉が映す真実というものもやはり存在します。その種の行為のおこなわれたあとの、被害者側の心境です。そこには少なからず、自分に隙があったから、自分が〜だから、といったある種の自責が付いて回ります。それは、「もしかしたら自分が相手を誘惑するようなことをしたのではないのか」と言い換えても良いことでしょう。隙があったとか、軽率だったとか、いろいろな意味でですが。
本来、この言葉は加害者側の行為を、あいまいにぼかした意味で誘惑といっていたはずです。しかし、その「誘惑」の後には、被害者のほうが自分の行為として「誘惑」を行った、ということを感じてしまう、そういうことになりましょう。

まあそんなわけで、誘惑という言葉を改めて考え直してみると、これ、わからないのです。誰が誰を誘惑したのか。誰が誰に誘惑されたのか。
まるで、誘惑という無所属の力がそこここを浮遊して、あっちにとりつきこっちにとりつきしながら、その主語を変えているようです。
ある女性の、たぶんに自己分析的な色合いを含む論文を読みながら考えたのも、彼女と父との関係の決定のしがたさでした。このケースは特に悲劇的な事件が起きたわけでもない、ごくありふれた父娘関係です。でも、このなかで自分が父のお気に入りである、ということに関して、それは父が(その気のない)自分をかわいがるようなことをした(そしてそれは、=誘惑された、と女児には感じられたようです)から自分もその気になった、ということなのか、自分が父を好きでいろいろ気を引くようなことをしたから、その自分の誘惑に巻き込まれて父がその気になったのか、どうしても分からない、ということが、一つの暗い重力になっていたように思います。
前者であれば、その気の無かった自分を唆してその気にさせてそして捨てた父親への怨念が、後者であれば、母をしのいで父を誘ったことの後ろめたさと、そのあげくに捨てられたことに対する、やり場のなさと(悪いことをしたのは自分なのだから、相手をせめるにせめられない、のです)。

昔、とある論理学で有名な野矢先生が講演して、言語行為論について語った後、自分はそこに誘惑ということを考えあわせてみたいのだ、と述べていたことがありました。
結構前なのでもううろ覚えなのですが、言語行為論的な文法あるいは習慣性の規則から天下り式に規定されてしまう行為の意味、を批判的に感じたからこそ導かれたものであったように記憶しています。

その際に感じたのは、誘惑ということの方が、より多くの、より強力で曖昧で、決定不能であるが故により過酷な力の圏内に人を引き込む可能性がある、ということに気づかれているのだろうか、ということでした。

ですが、それはなにもその考えが間違えで否定すべきものであるということではまったくありません。つまり、我々には我々が言葉の中に入り、そして人との関係の中に入る際に、ある曖昧な、不可解な、主述定かならぬ力の中に晒される、というふうに考えてみてはどうだろうか、という方向を向いた上ので感慨です。
ラカンなら、それを享楽というでしょう。
フランス語ならdeという言葉を生かして、他者の享楽、それは他者が自分を享楽するのか、他者を自分が享楽するのか、という曖昧さの二重性をラカンは引き出します。日本語の、〜の、も同じ二重性がありますね。

グリッサンは、口承文化において、口誦的な物語がとりわけ子供に向かって延々と語り続けられ、それは子供たちをその言葉の圏内に取り込むまで続く、と語っています(「<関係>の詩学」p.54-5)。
その言葉、言葉、言葉。ですが、その物語を語る人物もまた、その言葉の中継者でしかありません。回るのは言葉、そしてその言葉は、その言葉の圏域に取り込まれた子供達を、その中継者に変えて、また回っていきます。

ですから、我々が誘惑という言葉で考えるべきなのは、その圏域の中に取り込まれ、言葉の中継者へと変わっていく、その過程のはずなのです。
おそらく、女性の場合は、そこに我々よりはさらに複雑な関係性があるのでしょう。
この前のブログで、ラカンの17巻のセミネールの読書会ノートに、私はラカンが現実的な父と言語の中に巻き込まれることとを等置していたことを書きました。それは、おそらくここで、とても具体的な形で生きています。

ですが、言葉、言葉、言葉。そのリズム、生彩、はれやかさが、子供達の口を開かせ、物語を模倣させ、あるいは歌を模倣させ、口ずさみ、そして踊らせる、そんなからっとした陽気さが、そこには欠けています。それがなぜなのか、まだよくわかりません。それは、晴れやかな模倣から、何に変わってしまったのか。それは何故なのか、何の必要があったのか、どんな社会で、どんな現実を前にそうなったのか。
それはまた、別の話として考えましょう。いつか。

春です。散歩の季節です。鼻歌交じりに。そう、鼻歌です。要するに、鼻歌の哲学を、どうして鼻歌歌うのかの哲学を、ちょっと試みたわけですね。あら、おばか、という感じでしょうか。。。