ながめせしまに

今日も雨、というか、やたら雨の日に限って更新しているような気がします。
別に雨の日が特に閑とか、そういうこともないのですが、ぼんやりものを考えるのはながめせしまに、な折のほうがよいということかもしれません。
今日はここのところ相次いで邦訳が出版されたアラン・バディウのノートを。
ドゥルーズとの過去の経緯がありながら、のうのうと追悼本を出してしまうあたり、その立場がちょっ〜っと時として微妙なバディウ先生ですが、そうはいってもやはり、いまやフランス哲学会の大物であることには間違いないです。99年からエコール・ノルマルの哲学科主任のようですね。
日本の翻訳チームも一方はバディウのお弟子さんチーム、他方はたぶんマルキスト的な流れを残すチームということで、下世話な話ですがマーケット的にもこれから期待大というところで、争奪戦があるのかもしれません。今回翻訳された「倫理」「哲学宣言」共々、大作のひと、のイメージのある(偏見かな?)バディウにしては薄い、むしろパンフレット的な入門用著作で、実にいいチョイスだと思われます。

バディウの関心のひとつは主体の別の在り方、その構造化の別の範疇を提起する、というところにあります。その構造化の歩みは比較的明瞭で、

まず、代補=出来事があります。出来事について、存在するということへのありふれた記載に還元し得ない何事か、とバディウはそれを説明します。それが代補と等置されるのは、主体を構成すること、あるいは一つの真理がみずからの過程を経ることを可能にするために人間が呼びかけられるということ、が出来事であるからで、その出来事にたいする「忠実さ」により、この出来事が代補した状況に忠実に、その流れに沿って思考することであり、その決定を通じて、真理の生成過程としての主体の形成が行われます。出来事への忠実さの過程こそが真理であり、またその過程に沿って生まれるものが真理でもあります。

この出来事、それは既成の知、既存の言語の枠にないもの。真理の過程とはこれらの知に穿たれた「空隙−孔」であり、その担い手を「主体」と呼ぶと、バディウはいいます。それはいわば、非知の法です。そして、それ以前の、任意の何者かとしての主体が、出来事的な代補の動きに忠実に、その真理の過程を担い、それが具現化される実体となること、それを知らねばなりません。ここでバディウラカンセミネール第七巻での倫理、汝の欲望に譲るなかれを援用します。彼はそれを、出来事の点、という各主体の特異点としての空隙、状況のあらゆる規則から絶対的に分離され、その結びつきを解除されたこの地点と、そこから引き起こされる代補過程への忠実さと読み直します。

バディウはあらゆる状況の核心にこの空隙があり、その空隙同士が状況間を結び合わせる、といいます。この空隙の故に、主体の真理の運動とは、全体化する、トータリゼーションの運動とはなり得なくなります。それは名づけ得ぬものであり、名づけ得ぬものとは状況の純粋なリアルなものの象徴、真理なきその生の象徴なのだと。そして

「真理の過程のひとつの型に属する名づけ得ぬものが出現する点を規定することは、(哲学的)思考の困難な務めである。」(「倫理」146ページ)

この名づけ得ぬもの、それはしかし、やはり一つの過剰なシニフィアンがそこに「余分な名」として出現し、それが状況を動かし、真理の過程を動かしはじめるときを待たねばなりません。そして同時に、その命名から逃れ去る不可逆的な偶発性としての真理をも、そしてその逃れ去ることの出来事性によって導かれる真理の生成過程を追わねばなりません。

とりあえず、二冊をざっとレビューしてみました。ですが、やはりその基盤としてある思考、つまり、主体の生成過程、それを客体なき真理の生成過程の産物として思考することです。それはある意味では主体客体の別の否定を言語と真理の運動から導き出そうとした、ハイデッガー、そしてその影響下にあるラカン、この両者の問題圏内にあることは事実でしょう。たとえばハイデッガーは詩からその言語の動きを導こうとしましたし、ラカンはいっとき、サイバネティクス的な方面から言語の自律的な組織化を探求しました。おそらく、バディウにとってはより数学的な検討がそれに代わることになるでしょう。

わたしはその流れをとても尊重します。とはいえ、その出来事が出来事たる所以、そして出来事が出来事に出会うそのタイミング、としての時間性、それをどうそこに組み入れて良いものか、真理と時間性、そんなことをも、ちょっと夢想したりもします。

ながめせしまに。それもまた、思考と時間の出会いなのかもしれません。

でもま、そのへんはまた、いずれ。