君の名は

犬はあまり好きではありません。あの権威好きの動物は、どうも家の中でいちばん小さい子より一つ上の立場に身を置きたがるようで、家族の中でも、従兄弟をあわせた一族の中でもいちばん年下だった期間の長かったわたくしは、他の成員がほのぼのと戯れる中、彼らにずいぶんライバル視され、熾烈な権力闘争を繰り広げなければならなかったからです。
まあ、そういう事情ですから、恐怖感や嫌悪感から嫌うと言うより、端的に同レベルで喧嘩する相手に見えるから面倒、というほうが正確です。
そんなある日、犬を飼い始めた先輩の家に遊びに行った際に、長年暖めていたプランを実行してみることにしました。題して、犬はどこで自分をアイデンティファイするか。

どうも昔から、連中は自分の名前の音韻論的なつながりと差異をそれと識別して(ソシュール先生おねがいします)振り返っているのか、それとはほとんど関係ない、微妙な声音や態度ほか諸々によって振り返っているのか、謎だったのです。
そんなわけで、まだ生後まもなく、自分の固有名をようやく識別し始めたばかりの子犬なら、この仮定が検証できそう。というわけで、美しい名を持つ彼女には失礼ながら、ず〜っと「ぽち、ぽち〜」と(飼い主一家の白い視線をものともせずに)呼び続けていたわけですが、反応は定かならず。しかし、後日飼い主が試したところ、やはり「ぽち」でも「ん、わたし?」とでも言いたげな怪訝そうな顔で振り向いたそうです。

人はどこで自分をアイデンティファイするのか。それもまた、難しい問題です。ですが、このことで一つだけ考えさせられたのは、かのエリック・クラプトンのtear in heaven。あのwould you know my name?です。

お父さんは幼くして死んだ息子を天国に探しに行きます。そこで問いかけるのは、俺の名前が分かるか?昔から、ちょっと不思議に思っていました。お母さんなら、名前が分かる?と問いかけるでしょうか。声が分かる、顔が分かる、そんなほうが大事な気がするのです。

そんなわけで、あのおいぬさまたちに対するささやかな実験にも、そんな意義を付与できなくはないと思うのです。人は名前で振り返ります。それは、多分男性的な、あるいはとても父親的な秩序の中で。でも、それとは別の何かで振り返るときも、きっとあります。それを簡単に、何かに同定する気はとうてい起きませんが。しかし、アルチュセール的な呼びかけの秘密を、権力、それも明示的な(この場合で言えば戸籍登録の権力のような)それの秘密に置き換えることは出来ない、ということをどこか考えさせられます。それとは別に、人を振りかえさせる何か。明示的な権力は、その何かを事後的に明示化するためにだけ存在しているのかもしれません。呼びかけるもの、伝播するもの、うつるんですなもの、その秘密を。

とはいえ、あの可愛い子犬が、きょとんとした顔で振り返る瞬間をわたくしも見とうございました。でも多分無理。そう、それは飼い主にだけ許された特権的な瞬間だったのです。呼びかけに答えることの謎とは、権力論のようなもの寂しい話とは別に、あるいは同時に、子犬と飼い主の愛情の秘密でもあります。

たぶんそういう謎には一生無縁で、そして一生解けない気もしますが。。。人生考え直さないとなあ。