お釈迦様の手のひら


 その昔知り合いの女の子と話していたときのこと、例によってなが〜いのろけを聞かされていたわけですが、その日ののろけはこんな感じ。「彼はねぇ、男はいっくら嘘ついても女の子にはバレバレだし、逆に女の子の嘘は全然分からないしって。でもそういう、お釈迦様の手のひらで遊ばされている感が良いんだってぇ。」まあ、この手のご託ははぁはぁふんふんと聞き流してあげるのがのろけの正しい聴き方であろうとは思いますが、そのときはふっと、そぉかねぇ、と思ったものでした。言いませんが。。。

 とはいえ、この手の話はべつだん、彼女が特別というわけではなく、むしろステレオタイプなものです。男の側からも、女の側からも、この手の話は良く聞かされますから、まるでここに何らかの停戦協定があるのかとさえ思ってしまいます。だいたい、この手の話をするのは少々浮かれた、良くも悪くも単純ないい性格の女の子が多いので、一人の友人として見ても、お前の嘘テクではそんなには上手に人をだませないんじゃないの?とか、だいたいお前鈍い方で女の直感とかとは無縁じゃん、とツッコみたいケースがほとんどですから、女性の一方的な優位というよりは、どっちかっちゃ男女間の停戦協定ないしは妥協と和解の産物ではないか、という私の推測はあまり間違っていない気がするのです。

 で、そのとき、カップルとなる男の子の側を、と見ていると、こちらもひとつのパターンがあります。良くも悪くもかれら、クールというかひとに無関心なタイプが多いのです。だからといって頭が悪いわけでも、鈍感なわけでもない。ですが、彼らの相対する女の子の、ややもすると大仰な感情表現がきらいとか苦手というわけもなさそうなのです。
 もちろん、カップルの間での感情の分与というのは良くあるテーマです。たとえば、良く結びついた集団では感情とは相互作用でエスカレートしていくもので、一人の怒りが伝染し、それがポジティブにフィードバックしてさらに怒りを増幅し・・・と、歯止めの利かないことになるのは、集団心理の基本。でも対照的に、良く結びついたカップルでは、一方が(多くの場合自分では上手く表現できなかった)心に抱いた怒りや悲しみを先取りするかたちで、パートナーが先に怒ったり悲しんだりしてくれることで、当の本人は心の平静を取り戻すことが出来る、というのが良くあるパターン。ネガティブフィードバック、といっていいのかどうかは微妙なところですが、このあたりは人間関係の妙。

 でもま、妙といって感心してばかりいても仕方ないので、ちょっと考えてみましょう。ここに見られるのは、ある意味では人間の心的装置の機能分化、ないしは機能委譲です。人間は、自分の感情をある意味では直接にそれとして知ることはできません。感情は意識のコントロールするところではないからです。むしろ、それは「いかにしてこのディスクールは身体をとらえることに成功するか。」(1972.6.21)ということに対するひとつの解決策です。「よき感情とは範例、法解釈であり、それ以外の何ものでもなく、これが感情を基礎づけるということを忘れないでいただきたいのです。」(1972.6.21)つまり、問題なのはディスクールと、それが法解釈のように下してくる感情というものがあるのであって、その感情がディスクールと自分の身体とを、感情を媒介にすることで結ぶ、ということです。自我はその感情の生起する場所ですし、意識はその自我に発生した感情を再認識することで、どうやら自分のいる位置を確認する、ということになります。

 カップルの例でいえば、最初に、たとえば男の子がとあるディスクールの圏内にとらわれます。ですが、それはまだ男の子の中で上手に表現されるわけではないのですから、未決のままです。審議未決という感じでしょうか。ですが、捕まっていることにはかわりありません。で、愛し合う二人は簡単にこのディスクールの分与、共有を行いますから(というよりそれが愛の定義の気もしますが)女の子もそのディスクールにとらわれます。でも女の子はさっさとリアクトしますから、すぐさまそれを感情として表出します。つまり、男の子の自我として機能します。男の子は、自我は停止していますが意識は機能していますから、それを自分の反応として理解します。ですから、男の子は審議未決の宙づり状態の緊張から解放されます。逆にいえば、女の子はこのとき自我として機能してはいても、意識としては機能していないわけですから、ことが終われば綺麗さっぱり気分すっきり。実に良くできたシステムです。

 さて、話が枕からだいぶ漂流している感がありますが、本題はこのへん。男の子は女の子の感情の動きを知っている、そして自分で女の子に自分の秘密を悟らせるようにボロを出している、そして、にもかかわらずそのことを知りたくないあるいは抑圧している、そしてその状況を享楽している、ということです。それは同時に、「男が知らない&女は万事お見通し」ということが、男女どちらにとっても享楽の対象であるということです。

 それが、ここまでの小ネタとどう関係があるか?というと、この享楽には、この種の人間の心的装置の機能分与が関わっているのではなかろうか、ということです。
 母子関係がいちばん都合がいいでしょう。男の子が、ある同じディスクールに共にとらわれている相手がいるとします。男の子もまた、その感情の処理の、悪く言うとはけ口、良く言うと受け入れ先の役割を果たすことも出来ます。しかし、男の子にとってはそれは何かしら過剰なのです。ですから、男の子はその回路を遮断します。つまりは抑圧します。そしてここで仮説。抑圧とは、この種の過剰に対する防衛なのではなかろうかしらん、ということです。
 そのことのメリットは何でしょう。ここで、男の子は無知の位置に自分の身を置くことになります。本質的には男の子は、自分にまとわりついてくるこの過剰なディスクールに悩まされています(ジジェクが、去勢恐怖とはなにかを失うことに対する恐怖ではなく、なにかが過剰にあるということなのだ、といったことが思い出されます。ずいぶん強迫神経症的な読みだとは思いますが)。つまりは、宙づり状態という過剰です。ですから、この審議機関を自分の身体、そして自分の自我とその感情で処理するのは、結構大変。それなら、少々馬鹿にされても面倒でも、女の子の側がこの審議機関を一手に担ってくれる方が楽なのです。そんなわけで、男の子は、自分に関する知はすべて女の子の側に委譲しても、まあいいか、ということになるのでしょう。

 なぜ、男の子が?私は恐らく、その過剰が母親との関係、ラカン風に言えば母の欲望という過剰なものにたいする関係から生まれたからであろうと考えています。男の子が抑圧しなければならないのはこの母の過剰な欲望。しらんぷり、というほうがいいのでしょうか。自分に向けられた、過敏で過剰で不安定すぎてついていくのも面倒くさい、その感情。男の子にとってはそれは去勢恐怖であり、そのため知らんぷりをするに越したことはないものと認識されます。でも、じゃあなんでそれがパートナーの女の子の全知に対して向かうのか、ということを説明したいが故に、この感情の委譲の話が出てきたわけです。しらんぷりをするための代償として停止した自我機能を補ってくれる、そういう存在として女の子が必要なのです。

 じゃあ、女の子のほうはこの状況で何の得をして、何の享楽を得ているのか。これ、ちょっと難しい。まあ、自分がお釈迦様のような位置に置かれてあがめられるというのは、それ自体悪くない気もしますが、さすがにそれだけだとちょっと説明不足でしょう。これはまた、いずれ検討せねばならない課題です。