身体なき器官なき身体なき・・・(2)

 ドゥルーズの抱えた課題が、ラカンの抱えた課題でもあり、そのためにドゥルーズのいくつかの著作でドゥルーズが導いた概念がラカンにとって極めて高く評価すべきものであった、ということを、われわれは前回確認しました。

 ですけれども、これを「多様な身体の物質的現実に対して非物質的な過剰が存在する」という風に単純化してはいけません。それだけではなく、この過剰が身体自身のレベルに内在することがここでは問題なのです。ジジェクが指摘するように、前者のように単純化してしまえば、この「非物質的過剰」を取り払うだけで、純粋で還元主義的な唯物論のかわりに観念論が登場する。これがデカルトが近代科学の唯物論の創設者であると同時に近代的観念論の創始者でもあることの理由である、とジジェクは指摘しています。(219)一方では非常に素朴な唯物論的決定、機械主義的な因果律の信奉があります。ここに、非物質的な過剰としての観念を付け加えてみた所で、それを、まあちょっと極論ですが「脳内妄想」という枠にでも放り込んでしまえば簡単に観念論と唯物論は共生できてしまうのです。

 そういうわけで、この「潜勢的なものと現勢的なもの」という組み合わせを考えるときに、意地でもこの二つを単純に切り離してしまってはいけないのです。そうするとたとえば「潜勢的現実は現実の模倣とそうした経験の人為的媒体における再生産を示しているにすぎない」(18)ことになってしまったり、逆に潜勢的なものとは現勢的なものの相互作用から生じた因果律に対して、われわれがその神髄を見いだし得ないがために想定した幻影、という風に解釈されてしまいます。
 哲学史的には既にこのことはフィヒテが指摘していた、とジジェクはいいます。フィヒテによれば、哲学には二つの基本的方法があるそうなのです。ひとつはスピノザ的であり、それは客観的現実から出発し、そこから自由な主体の創生を展開することを試みるものです。他方は観念論的であり、絶対的主体の純粋な自発性から出発し、主体の自己規定の帰結としての現実を展開することを試みるものです。ちなみに、シェリングが『世代論』で展開したのは、自然的現実の構成された領域としての自然それ自体からではなく、神の元にある未だ神ならざるもの、前存在論的な現実的なものという深淵から出現する精神、ロゴスの創生という第三項を導入したことである、ともジジェクは触れていますが、このあたりのことは以前のブログ(8月1日あたりから)を参照してくだされば幸いです。

 では、ドゥルーズの立場はどうだったのか。ジジェクはそれをこう要約しています。
 ドゥルーズ存在論の基本的配置は、潜勢的なものと現勢的なものです。現勢的な空間はその潜勢的な影を帯同します。これがドゥルーズの超越論的経験主義であり、これはカントの超越論的なものという概念にひねりを加えたものです。さて、ドゥルーズは生産と表象といった伝統的対立にそれを結びます。そうすると、潜勢的領域は発生的すなわち生産的な諸力の領域として再解釈され、表象の空間と対置されるものとなります。ですが大事なのはここから。生産の真正な場は潜勢的空間それ自体ではなく、むしろ潜勢的空間から構成された現実へのまさに移行的通過、多数性とその振動のあるひとつの現実への崩壊とされているのです。そうすると、生産は潜勢性の解放空間の限界、潜勢的な多数性の規定と否定である、ということになります。(47-49)


 さて、その問題の精神分析的な位置づけに戻りましょう。ジジェクはこう言います。一方で触発的情動の脱実体化があり、それはもはや実際の人格に帰せられるのではなく、自由に浮遊する出来事へと生成している。ではそれが身体あるいは人格へとどのように結びつくことになるのか?
 ここでの曖昧さは、一方で情動が諸身体を相互に作用させることで発生させられるとしながら、他方でそれが潜勢的な強度の一部であり、そこから諸身体が現勢化を介して出現する、つまり生成から存在へ移行する、という曖昧な区別がなされているという点にある、とジジェクは指摘します。


「そしてこの対立は、またしても、唯物論と観念論の対立ではないだろうか。ドゥルーズに関わって言えば、これは『意味の論理学』と『アンチ・オイディプス』」との対立を意味している。すなわち<意味-出来事>、純粋な<生成>の流れは身体的原因の複雑な絡み合いの非物質的な(能動的でもなければ受動的でもなく中立的な)効果-帰結なのか、あるいはポジティヴな身体的実在はそれ自身<生成>の純粋な流れの所産なのかといった二者択一、潜勢性の無限の領域は相互作用しあう諸身体の非物質的な/効果-帰結なのか、あるいは諸身体それ自身がこうした潜勢性の領域から出現し、みずからを現勢化するのかといった二者択一が、ここでは問題である。」(51/2)

 ジジェクは、『意味の論理学』におけるドゥルーズには、その二者択一に対して第三項を用意する周到さがあったと指摘します。それがドゥルーズの準原因という概念です。ジジェクの解説によれば、それはこうです。ドゥルーズの力点は有体的corporealな因果性は完結していないという点に措かれている。準原因は有体的因果性のギャップを充填している、意味に内在するものとしての無-意味である。(62)ここから、ジジェクはそれをラカンの概念における対象aにあたるものとしています。もっとも、ジジェクのこの件に関する立場はかならずしも首尾一貫はしていません。ドゥルーズの準原因がラカンの「ファルスのシニフィアン」の別名(166)とも、後に言い出すからです。まあ、その後の説明を読めば、それは単純な混乱というわけではないことが分かりますが、この箇所は今ひとつ言い訳臭いとも思われます。一応引用しておきましょう。

「小さな対象aの定義には、分割操作によっては分割しえない亡霊のような残滓としてのちいさな対象aというものがあり、この場合、この分割しえない残滓がファルスそれ自体とされている。」(174)

 さて、ここではさしあたりそれをファルスに同定しておきましょう。ジジェクはその少し前の箇所で、同じくドゥルーズの『意味の論理学』のなかにファルスの理論を見いだしています。それが「暗き先触れ」とファルス概念です。「雷は相異なる強度の落差で炸裂するが、その雷には、見えない、感じられない、暗き先触れが先行しており、これが予め、雷の走るべき経路を、だが背面において、あたかも窪みの状態で示すかのように、決定する。」(『差異と反復』財津理訳、河出書房新社、187-8頁)このドゥルーズの指摘を受けて、ジジェクはこう指摘します。暗き先触れとはそれ自体一つのメタ差異のシニフィアンである。意味の効果が生起するには、シニフィアンシニフィエの二つのセリーの間のショートサーキットが必要であり、ラカンはそれをポワン・ド・キャピトンと呼んだわけである。それは、シニフィアンシニフィエなき空虚なシニフィアンという形態を取ったシニフィエの秩序に書き込むことによって可能になるのだ、と。(163)


 「第一に、無感覚で不毛な<出来事>はその男性的で有体的な因果基盤から切り取られ、あるいは抽出され(『去勢』に何らかの意味があるとすれば、それはまさにこのことを意味している)、次いで第二に、<意味-出来事>のこの流れは、それ自身の自立的な領域として、その有体的な具体化に関わる非有体的な象徴秩序の自立性として、構成されることになる。したがって「象徴的去勢」は、準原因の基本操作として、深い意味で唯物論的な概念である。」(166)

 こうして、ジジェクが象徴的去勢と準原因を同じ平面上に位置づけていることが理解されます。でも、それはどういう意味でしょう。


「現勢態は、或る潜勢的(象徴的)代補が前-存在論的である現実的なことへ付加されるとき、みずからを構成するのである。言い換えれば、現実的なことからの潜勢的なことの抽出(「象徴的去勢」)が、現実をまさに構成するのである。−現勢的な現実は、潜勢的なことというフィルターにかけられた、現実的なことなのである。」(167-8)

 つまり、現勢態と潜勢態の移行は単純な二項対立や、その相互のニワトリ卵的な前後関係に回収されてはならないのです。ある潜勢的なものが、現実的なものの中に付加されるとき、一瞬で現勢態はそれ自身として構成され、つまりは現実と呼ばれているものが生み出されるのです。哲学史的にいえば「すでに当のカントが、このパラドクスに気づいていた−混乱に充ちた印象領域は、それが超越論的な<理念>に代補されると、現実へ転換する、といったように。超越論的観念論のこうした根本的教訓が意味するところは、潜勢化と現勢化は表裏一体である、ということである。」(167)というところでしょうか。

 では、この唯物論とは何でしょう。ジジェクはこう言います。還元論的、機械論的唯物論とも、観念論とも抗する弁証法唯物論なのだ、と。それは意味や効果を表層の現象で、根本的でより深い物質的な本質の現れと理解する機械論的な唯物論ではない。意味、効果を自発的な実在へ物神化する観念論でもない。そしてまた、この二つの対立を根本的なものとしてしまう構えでもないものです。「弁証法唯物論だけが、精神的<出来事>が出現する「非物質的」な空を、すなわち精神的な<出来事>が出現する否定性のギャップを、実際にも、思考することが出来るのである。だが観念論は、その反対に、この空を実体化してしまう。」(175)

 ここまで、ドゥルーズがいかにラカンの抱えた問題に対して洗練された概念を提起し、ある点でラカンに「自分に先行している」とさえ思わせたのかを見てきました。次回はそれを再確認しつつ、逆にそこをもとにして、つまりドゥルーズによってドゥルーズ=ガタリを批判するような形で、そこからジジェクが進めていった議論を確認していきましょう。