身体なき器官なき身体なき・・・(3)

 さて、ここまでながながとジジェクの『身体なき器官』をまとめてきたました。
 ここまでわれわれが見てきたのは、後期ラカンが抱えることになる問いと、ドゥルーズの抱えた、そして導いた概念の近親性でした。ジジェクのまとめと、そしてそこからのドゥルーズ=ガタリないし「アンチ・オイディプス」批判はこういう風に導かれます。


「ファルス・・・は<意味-出来事>の純粋な表層の出現を媒介するのだ。まさに「超越論的なシニフィアン」−意味の領野における無意味が、<意味>の型をそれ自体として配置し、差配する。この「超越論的」地位は、それについてはいかなる「実体的」なものも存在しないことを意味している。ファルスは優れて見せ掛けなのだ。ファルスが「原因となって」起こることは、身体的な密度から表層-出来事を分離するギャップである−そしてその真の実際的な身体的原因という視点から見た<意味>の領野の自立性を維持するもの、それが「準原因」にほかならない。」(180-1)

「生成的生産と物(象)化された存在との対立といった『アンチ・オイディプス』で提起された方向性には、ドゥルーズの重要な概念である「準原因」が存在する余地がない。なぜなら「準原因」が参入する目的とは、出来事の有体的原因に関わって、出来事の不毛で無感覚な流れの自立性を維持することだからである。」(181)

 ここから、われわれはようやくスタート、つまりジジェクのこの著作の表題の意味にたどり着きます。ジジェクはいいます。


「生産的<生成>の場としての潜勢的なことと不毛な<意味-出来事>の場としての潜勢的なこととのこうした対項は、同時に、「器官なき身体」と「身体なき器官」との対項ではないだろうか。器官なき身体は純粋な<生成>の生産的本流であり、いまだ機能的器官としては構造化されていないあるいは決定されていない身体だが、身体なき器官は、『不思議の国のアリス』でチェシャー・ネコの身体がもはや存在しなくなったにもかかわらず依然として残っている例の微笑みのように、或る身体に埋め込まれている身体なき器官から抽出された純粋な触発-情動の潜勢性ではないのか。」(66-7)

 身体なき器官、それが象徴的去勢をうけたファルス、この超越論的なシニフィアンであることはここから明らかです。いってみれば、ジジェクはもっともわかりやすく流布したドゥルーズ=ガタリ理解と、そこに基づいたラカン批判に対して、あまりに期待通りに最もわかりやすく流布したラカン理解と、そこに基づいたドゥルーズ=ガタリ批判をぶつけてきたわけです。すごいですね。でも、その意味を補足しておかないと、これは不毛な論争を不毛に再生産するだけに終わってしまいます。それを、ジジェクは調整のファルスから去勢のファルスへ、とまとめています。
 つまり、ファルスのシニフィアンによって、「散乱した性感帯の多数性」を「整序された全体へ全体化する」という作業。これ、いわゆるドゥルーズ=ガタリのファルス批判ですよね。そこで中心点として機能するのが、「調整のファルス」です。
 しかしそこから、むしろ「この調整は失敗を避けられない」という、その失敗の帰結としての去勢のファルスへとジジェクは移行します。だからこその「身体なき器官」です。つまり、この器官は身体を捉えることを失敗したのです。この失敗こそが象徴的去勢なのです。もし仮に、ファルスがある種の普遍化機能を担うものとして機能している、つまり調整機関のように見えるとしたら、それはこういうわけです。つまり、セクシュアリティは字義的意味が犠牲になり、脱性化されるという条件でのみ、その普遍的な次元を保有し、あらゆる行為、対照の内包として機能するからなのです。(179)

 こうした前提で、われわれはジジェクによるドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』批判の真意にたどり着くことが可能になります。


フロイトによるエディプス・コンプレクス解釈は、社会的強度の多数性を<パパ-ママ-ぼく>のマトリクスへ、主体の社会的空間への爆発的解放のマトリクスへ還元することに、対蹠しているのではないだろうか?「象徴的去勢」の経験は、主体にとっては、家族的網の目から擲げ出されより広い社会的網の目への参入を強いられる機制である−エディプス、それは脱領土化の操作子なのだ。だがとはいえ、エディプスが欲動が示す初期的「多型倒錯」を<ママ-パパ-ぼく>という座標軸上に「焦点化」させるという事実については、どのように考えればよいのか?・・・実際「象徴的去勢」は、私たちを渡した死の身体的現実に緊縛するどころか、この現実を「超越」し非物質的な<生成>の空間に参入するため/に必要な私たちの能力それ自体を支えているのである。・・・ファルス自体が、去勢の能記として、そうした身体なき器官を表現している、としたらどうだろう?」(165-6)

 繰り返しましょう。ドゥルーズが「意識の純粋な前-主体的流動、非人格的で前反省的な意識、自己なき意識の質的な持続」(Immanence:une vie..., in John Marks, "Gilles Deleuze", London, Pluto Press, 1998, p.29)として語ろうとしたもの。それは精神分析にとっても重要な問題なのです。それは臨床の現場では、かつては(初期のラカンでは)寸断された身体と、そして後のラカンでは語る身体(seminaireXX, p.109)として表現されます。この語る身体を、ジジェクはこう説明しています。


「とすれば、(部分)対象それ自体が話し始めるとは、いったい何を意味しているのだろう?それは、この対象が主体を欠いていることではなく、この対象が主体化に先立つ「純粋な」主体と相関していることを意味しているのだ。主体化は身体の相関物である「全的人格」に関わっているが、「純粋な」主体は部分対象だけに関わっているのだ。対象が話し始めるとき、私たちが聞くのは、未だ主体化には関与していない怪物じみ、非人格的で、空っぽのマシニックな主体が上げる、声である。」(329)

 順序が後先になりますが、先ほどの『アンチ・オイディプス』批判の箇所、それをジジェク的にではなく"ドゥルーズ的に"行ってみました、とジジェクが主張するかもしれない箇所が、その少し前にあります。


ドゥルーズ的に言い換えれば、部分対象のこの「自律化」は現勢的なことから潜勢的なことを引き出す機制ではないだろうか?とすれば「身体なき器官」という状態は潜勢的なことだということになるだろう−言い換えれば、潜勢的なことと現勢的なこととの対項では、ラカン的な<現実的なこと>は潜勢的なことの側にあるのだ。」(320)

 ですから、器官なき身体の、無頭にして多形倒錯的な欲動が、ファルスによって統合される。それと同じように、マルチチュードな運動が空虚なシニフィアンとしての立憲君主に・・・などというジジェク批判がここではあたらないことは確かです。ファルスとは多形倒錯のなかでもその極め付きのもの、むしろ多形倒錯のなかの多形倒錯です。いってみればそれは、潜勢的なものを現勢的に、現勢的なものを潜勢的に、より流動化させる、その流動性の普遍性を作りだすという意味で、むしろ戦争機械なのです。
 そしてまた、ジジェクラクラウのヘゲモニー的接合からの教訓(『資本主義・ファシズムポピュリズム大阪経済法科大学法学部研究室訳)をこう語ります。「ファシズムは分散的なエレメントが「共鳴し」始めるときにのみ出現するのだ、と。事実ファシズムは、まさにこうした諸要素の共鳴が示す特種な様式にすぎない。」(360)ここには、ジジェクマルチチュードに関して持つ不満が縮約されています。ですから、ある意味でジジェクの立場はマルチチュードな運動のそれより一層ラディカルにマルチチュード的、ともいえますし、あるいは「あともう一歩を」と述べているようでもあります。

 だいぶ長いレジュメになりました。まあともあれ、確認しておきたいのは、私がこの著作の重要性を

1. ここでのジジェクのスタンスが、ドゥルーズ自身の極めて重要な、そしてラカニアンとも分かち合うべき困難な問題を見極めようとする、という点にあること
2. その行き詰まりの解消を『アンチ・オイディプス』からマルチチュードへ、という流れと別に見いだすことが、マルチチュードのなかにあるファシズム的傾斜への抑止にも重要である、ということ

という観点から感じたのだということです。まだ直接的に答えのでない箇所は多いのですが、ともあれ、ジジェクにとって非常に重要な著作になったことは確かなのではないかと私は思います。