世界貧乏

 なんのはなしだ、というタイトルですが、別に私が世界的な貧乏人であるという意味ではありません。でもまあ、結構そうなのですが。。。そしてここんとこますますひどくなるその貧乏の一因に 、先週行われたジョアン・ジルベルトのチケット代が含まれていることは言うまでもありません。高かった。

 とはいえ、演奏自体はその価値のあるものでした。多分世界で最も省エネな歌い方。繊細なギター。しかし、リズムは淡々とボサノヴァのリズムを刻んでいるように見えて、じつは驚くほど細かに変化していきます。

 まあ、そういう感動のお供として、彼の場合、ちょっとした奇行がくっついてきます。例によって開始は30分以上遅れ(いま到着しましたので開演までもうしばらく・・・というアナウンスが入った時は場内から拍手が起きたりします)おまけにコンサートの中間地点、クラシックであれば休憩が入りそうな時間で、ご丁寧に舞台上でこれまた20分以上固まっていたり。ご本人に言わせると、瞑想兼聴衆への感謝のしるし、ということらしいのですが、前者はともかく後者はいまいち分かりかねます。もっともこの奇行、場内に事前にその癖をお知らせする張り紙が出ていたので、みんな余り驚きはしなかったのです。去年の学習効果でしょうか。ちなみに、去年初めて東京でこの光景に立ち会った知人は当然その癖を知らないものですから、年も年だしステージ上で死んだのか?だとしたら歴史の目撃者だなあ、などと不謹慎なことを考えていたようです。でも、あのおじさんの歌声、今でも確実に毎日女のひとを口説きまくっていることはたしかじゃないかなあ、という、微妙にして濃厚なつやっぽさを含んだ素晴らしい声でした。

 さて、そんなコンサート開始前、当然のことながらぼおっと開演を待ちつつお茶など飲んでおりました。周囲の人は、それなりにその時間を愉しみつつ、なかにはやっぱり時計が気になって仕方がない人も居たようです。私個人は、じつはこの手の時間がものを考えるのにいちばんいい時間だ、という傾向がありますので、ぼうっとネタ繰りに励んではいたのですが、そのときふと、ああ、この時間、ある意味で時間から切り落とされてしまったようだなあ、と思い浮かびました。le temp suspendu, 一時中断でも、宙づりにされた時間でも良いですが、そんな感じ。英語だと、suspended time? ん?なんか野球の試合みたいで、もう一つかなあ、などと考えたり。そのときにふと、ああ、ハイデッガーは正確にはなんといっていたのだっけ?と気になりました。

 以前、アガンベンのところで(このへん)ちょこっと触れたのですが、ハイデッガーの奇書(といっても良いでしょう)「形而上学の根本諸概念」は、その中間部を延々と「退屈」ということの分析にかけた、奇妙な講義の記録です。1929/30年の講義、研究者の間では「存在と時間」のもっとも良い導入、解説でもある、というおはなし。しかし、読んでみるとこの講義、とても奇妙です。行きつ戻りつ、執念深く粘着に仮想反論者の声など頻繁に入れつつ続く退屈の分析、そして一転してロゴスについての分析が、存在論の根本として急転していくそのありさま。ハイデッガーの講義録は、もちろん編集がどこまで入っているか分からないので何とも言えないのですが、全般に、授業をするものならかくありたいものだ、という見事さが特徴なのですが、この講義だけは「それこそ退屈で寝た奴おったろな」というところも多々。

 しかし、ハイデッガーは、その退屈ということで、いったい何を言おうとしたのでしょう。今回は、そこをちょっと追ってみたいと思います。

 そこにいるのに「現に」そこにいる「のではない」こと。眠っていたわけでもないのにそこに不在(abwesend)であること。この離脱-有Weg-sein。このような不在的有の場合、われわれはまさに自分自身に関わり合っている。しかしそれでもそれは一種の離脱-有である。そう、ハイデッガーは言います。居なくなった、離れ去った存在としてのわれわれ。


「結局、そもそも人間が有る有り方にこの離脱有可能が属しているのだ、ということがわかる。ただし人間がこのような形/で離脱有可能なのは、人間の有が現-有という性格を持つ場合だけである。・・・要するに現有の本質にこの離脱-有が属しているのである。この離脱-有はときたま起こる任意の一出来事なのではなく、人間の有自身の本質的な一性格なのであり、一つの如何に(Wie)であって、人間はこれに沿って有り、したがって人間は誰でも、実存しているかぎり、彼の現有において常に既に必然的に何らかの仕方で離脱してもいるのである。」(105/6)

 さて、この離脱した存在としてのわれわれ。この感じは、先ほどのコンサート待ちの私の心境に、とてもよく響くものでした。世界から切り離されて、コンサートホールのにぎわいが遠くなり、ガラス窓の向こうを見ているようなあの感じ。うちの一族にはこの感覚に突入するのが上手い者が代々多うございまして、離人ごっこなどと名付けられています。

 しかし、この妙な「気分」。もちろん退屈も一つの気分です。しかし、ハイデッガーは言います。「気分自身は人間の有の最も内的な本質と、つまり現有と、関係がある。気分は人間の有に属する。」(106)と。急いで付け加えておきましょう。その気分を、ハイデッガーは別に主観的な気分といっているわけではありません。気分などというと、いかにも個人的で主観的で、考察するに値しないくだらないもの、って雰囲気もありますが、そうではないと。でもだからといって、気分が客観的なものだ、といっているわけでもありません。ハイデッガーは問います。


「すなわち、気分は誰か他人の心の中にあるわけではなく、またその傍らでわれわれの心の中にもあるというわけでもなく、そんなふうに言うよりはうしろ、この気分は今やすべてを覆って横たわっているのであって、それは決して、或る内面性の「内部に」あり、それが目の表情に現れ出てきているにすぎないのだ、などということではないと言わねばならないし、実際そういうふうに言う。しかし気分はだからといって、外にあるわけでもない。では一体、気分はどこに、そして、いかに、あるのか。」(110)

「気分は現-有の様式(Weise)であり、したがってまた、離脱-有の様式でもある。」(111)

 ここで、ハイデッガーが気分というものをとても奇妙に捉えていることに、われわれは気づかされます。主体の内でもなく外でもなく。むしろわれわれはそれに「襲われる」のですが、だからといって気分という猛獣がそこらをうろうろしているわけでもありません。
 その気分のなかでも、ハイデッガーはとりわけ退屈を取り上げます。なぜでしょう。次回は、そこから考えてみることにしましょう。