世界貧乏(2)

 退屈Langeweile、長い時間lange Zeit、アレマン方言の慣用では「長い時間を持つ」は「郷愁を懐く」という意味になる、とハイデッガーは指摘します。深い退屈、一つの郷愁。(133)それは、ノヴァーリスの述べた「郷愁としての哲学」に呼応しあうものだ、ということをハイデッガーは意識します。そして、ここから退屈という問題を一気に広げてこう言います。退屈と、「世界、有限性、単独化」という問題。この三つの問いは一つの根本的気分としての深い退屈から生じてくるのだ、と。(133)

 退屈もずいぶん出世したものです。世界に有限性に単独化、どれもなにやら曰わくありげで哲学的で深遠そうではありませんか。でも、世界って、有限性って、単独化ってなに?という疑問は当然出てくるでしょう。いまから種明かしをしておくと、ハイデッガーはいつもながらの見事さで、延々と続く退屈の説明のなかからこの三つの概念の定義をしっかり導き出します。ですから、その定義を語るのはちょっと待って頂いて、まずは退屈の話を追いましょう。退屈かもしれませんが。。。

 退屈。ダラダラ引き延ばす、釘付けにされない・・・そんな風に述べたあと、ハイデッガーは先ず退屈をこう説明します。「ただ釣られ引き止められ(hingehalten)ているだけなのである。味気ない、とは、それがわれわれを満たさない、われわれは空虚に放置され(leer gelassen)ている、ということである。・・・すなわち、退屈させるもの、退屈なものとは、釣って引き止めておくもの、そしてそれにもかかわらず空虚に放置するもの、である。」(144)

 それでもってハイデッガーは、でもこの退屈には三つの様式があるといいます。

 一つは列車待ち。待合室。われわれは手持ちぶさたです。ぶらぶらして、時計を見て。そのときわれわれはぐずつく時間によって釣られ引き止められている、ということになります。この釣られ引き止められは、列車の発車までのこの中間時間によって生起することになりますね。つまり、「ぐずつく中間時間的時間経過による釣られ引き止められ」(167)です。そして「退屈とともに台頭してくる空虚放置へと落ち込まないため」に、ひまつぶしの気晴らしの仕事をするのです。駅舎の例であれば、駅舎がわれわれを空虚放置するとは、駅舎がわれわれのいうことを聞かないということ、つまり、ぐずつく、困らせる、釣って引き止める時間が、駅舎をしてそれが提供すべきはずのもの、時間通りに来るべき列車を提供させなくなる当のものである、というふうに連関させられます。(174-5)駅舎がわれわれの言うことを聴かない、というのも変な話です。せんせい、物にあたってはいけませんよ、と言いたくなるところです。でも逆に、ただのモノにそっぽを向かれ、この世界のなかに何かうまくいかないモノを感じ取る、そんな感じは誰しもおぼえがあるでしょう。だいたいは八つ当たりしてモノを殴って、かえって自分が怪我をしたり、壊してしまったモノの高価さに泣くことになるのですが、まあ、それはそれとして。

 二つ目は、晩餐への招待と小パーティー。親しい友人、美味しい食事、綺麗な音楽、食後の葉巻・・・何一つ退屈なところがなく、満足して帰路に就きます。でも、、あとから振り返れば私はやはり退屈していたのだ、ということ。「或る種の空虚が自己造成するという形における空虚放置」(193)なんだか分からない、はっきりしないなにかに退屈させられていることに気づくということ。(194)せんせい、友達いなかったでしょ?と思わせる御発言です。。。
 結局それは時間に対してわれわれを釣って引き止める可能性を、しかもある深化された仕方でそうするということにすぎない、とハイデッガーは言います。だからといって時間がわれわれを完全には放免するわけではない。押しつけがましい形で割り込んでくるわけではなく、クズ付くわけでもない、自分を隠しているわけでもない。そうではなく、時間が停止している、ということ、それはより根源的な釣って引き止めることであり、つまり困らせることである、と。
 時間の単なるぐずつきの場合は時間が来ればそれは終わり。でも、停止せる時間の場合、われわれをより根源的にくくりつけるためにのみそこに停止しているのです。われわれが自分のためにとっておいた時間、われわれの時間。この停止せる時間は、われわれの現有(現存在)の全時間である、とまでハイデッガーは言います。この停止する時間の中にわれわれの全時間が詰め込まれている、「われわれ自身過去の停止せる時間なのである。」(210)なのだ、とまで。せんせいそんな大仰な。でも、ここで、雲のようにとらえどころのない退屈そのものがむくむくと起きあがって形をなし、パーティー装置に化けていくその感覚はなかなか面白くないでしょうか。


「停止するに到ったこの時間は一つの空虚を造成する。この空虚は、たまたまそこで起こるすべてのことのちょうど裏側で裂開するのである。この自己造成する空虚こそは、しかし同時に、われわれを呼び止め、われわれをそちらへくくりつけ、そういう仕方でわれわれを釣って引き止めるものであり、これが実は、われわれ自身によって停止したまま放置されているわれわれ自身の自己、われわれがそれから滑り落ちてしまっているそのわれわれ自身の固有の自己にほかならないのである。」(212)
 それは、退屈からの回避、そう見えてじつは自分を退屈させることにすぎません。そして外的に到来するのではなく、当該状況がきっかけになって立ち上るのです。

 さて、最後の三つ目。なんとまあ、せんせいは言います。なんとなく退屈。。。そんないい加減な、といいたいところですが、辛抱して流れを追いましょう。
 これ、主語がEsで語られるものです。これまでの第一の退屈では、退屈を気晴らしでかき消して退屈のいうことを聞く必要を無くしてしまうことが、第二の場合退屈が言ってよこすことを聞くことを欲しない(それどころかそれそのものをパーティーという形に造園して、無視してしまうのです)ことが特徴だった、とハイデッガーは言います。しかしこの第三形式においてわれわれは聞くことを強制されていることになりますから、ここでは個人的主観、というか主体の努力でしょうかね、それはもはや無力です。お手上げ、という奴ですね。
 そこでわれわれは「そのつどの特定の状況と、われわれをそこで取り囲んでいる当面する有るものとを超えて超出させられてもいる」(230)とも、ハイデッガーは言います。ここでは状況の全体も個人的な主観としてのわれわれも、もうどうでもいい話。なぜなら、このときわれわれは、全体としていうことを聞かないsich versagen有るものへと引き渡されているからです。
 この拒絶していうことを聞かないことVersagenのうちには、或る種の言うことSagen、顕わにすることが含まれています。では何についての拒絶を言うのか。「それは、ほかならぬ、現有のすることなすことの諸可能性である。現有のこの諸可能性について、この拒絶が言うのである。・・・この拒絶はこの諸可能性を拒絶することによってこの諸可能性へと指し示すのであり、この諸可能性を告げ知らせるのである。」(235)そして、ハイデッガーはそれをこう結論づけます。


「なんとなく退屈だと現有(現存在)がつぶやき言わざるをえないようなとき、この現有の中で作動しているものとして、二つのものが、すなわち、全体において言うことを聞かない有るもの(存在)の余すところなき全くの広域と、現有そのものを可能ならしめるものの唯一の先端と、この二つのものが、或る独特の統一をなして同時に顕わになるのである。・・・このような、広域へと連れ込む空虚放置と先鋭化しつつ釣って引き止めることと、この二つのことが一つになってしまっているのが、われわれが退屈と呼ぶ気分づけの根源的な仕方なのである。」(241)
 なんのことでしょう?わかりませんね。では、急いでハイデッガー本人の解説を聞きましょう。

「なんとなく退屈だ。この気分において現有はどこにでもいるが、しかし実はどこにもいたくはない、この気分、これは呪縛されているという独特のものをもっている。呪縛するものは時地平にほかならない。時が現有を呪縛する。ただし、流れと区別された停止せる時間としての時が、ではなく、そのような流れるとか流れが停止するととかいうことの彼方なる時が、そのつど現有自身が全体においてそれであるところの時が、である。」(246)
「だから、時のこの呪縛威力こそは、本来的に拒絶するものなのである。・・・同時に、時のこの呪縛こそは、本来的に拒絶されたものを、すなわち、現有が自分の諸可能性にしたがって自分が有り得るところのもので有り、自分が有り得るごとくに有るべきものならば、どうしても避けては通れない事柄を、言外に言いだし呼び出すものである。呪縛するもの、拒絶するもの、このものは同時に、アナウンスしつつ解放して自由にするもの、現有の可能性を根本において可能ならしめるもの、でもあるのに違いない。呪縛するものは同時に、本来的に可能ならしめるものを牛耳っている。それどころか、この呪縛する時こそは、それ自身、現有を本質的に可能ならしめるこの尖端なのである。」(248)
 われわれは、時間のなかで、時間に呪縛されています。でもその呪縛のされ方は、拒絶という形をとります。私は時間に拒絶され、時間の流れからぽつんと孤立してひとり。そう、ひとりです。ハイデッガーは明確には語りませんでしたが、恐らくこれが単独化にあてることのできるものでしょう。そして、その拒絶してくるものとして、その茫漠たる広がりとしての、世界がそこにあります。
 でも、それは、その拒絶は、何かを可能にするものでもあるのです。では何を?ハイデッガーはそこに現存在、すなわち有限性を見て取ると同時に、その自由の可能性を見て取ります。「しかし現有が自分自身を自由にするというこのことが生起するのは、そのつどただ、現有が自分自身へと向けて(zu)自己封鎖解除即決断する(sich entschliessen)ときだけ、すなわち、現有が現-有としての自分のために(fur)自分を開く(sich erschliessen)ときだけである。」(249)とも。そして、この決断の時間はキルケゴールの言う瞬間と関連づけられ、他方、自己封鎖解除即決断は、ユクスキュルの著作を参考にして、動物の環境世界と比較しつつ、検討されていくものとなります。次回はそこから話を続けましょう。