世界貧乏(3)

 さて、ハイデッガーは言います。というか、ここでようやく今回のレポートシリーズのタイトルにたどり着きました。
 ハイデッガーの区分はこうです。石:無世界的。動物:世界貧乏的weltarm。人間:世界形成的、と。
 世界貧乏、何のことかと思いましたが、まんま直訳なので、語義から解釈を深めるのは無理そうです。。。

 ハイデッガーは言います。「動物は動物としてそれぞれが自分の餌、獲物、自分の敵、自分の異性に対する特定の関係をもっている。この関係はわれわれには無限に把握困難であり・・・形而上学的には従来まだ全く見られも概念把握されもしていない一つの独特の根本性格をもっている。」(321)しかし、「動物はその生の持続の間、広くも狭くもされない管の中に、のように、自分の環境世界の中に、閉じこめられているのだ、と。」(322)
 どういうことでしょう?ハイデッガーは言います。動物はその本質上囚われているbenommen限りにおいて振る舞うsich benehmenことが出来るのだ、と。つまり、動物は、自分のまわりを一つの輪で囲います。その中でとある条件にであえば、動物は行動開始!以前アガンベンが挙げていた例であれば、たとえばある種のダニが酪酸と37度という温度をきっかけに行動するように。この意味で言えば、動物は退屈しない、そうハイデッガーは言いたいのでしょうか。愛犬家愛猫家あたりからは苦情が来そうな話です。

 これをハイデッガーはユクスキュルを受けて、抑止解除といいます。ですから逆に言えば、動物は自分の周りの環境のなかに深く根ざしています。自分がその環境のなかに留めおかれ、保ち、取り込まれること。ですから、逆に言えば「動物の世界貧乏性とは言うけれど、これは、粗雑な言い方で言えば、貧乏どころか豊富なのである。」(403)ということにもなりますね。なぜなら、これは人間にはある意味では欠如している事柄だからです。しかし、そこはハイデッガー先生、ただでは転びません。ここに、人間が開顕的(offenbar)であるゆえんがある、というのです。この、開かれているということ、それが「世界」であると。もっとも、「存在と時間」をお読みの方なら、道具存在の連関の中で同じような事柄を作りだすんじゃなかったっけ?という疑念も出てきましょう。しかしそれはまた別の話。

 この意味で言えば、人間は、世界のなかに、現実プラス開け、をもっていることになります。この時期のハイデッガーはおそらく、その開けをなんと見立てるかで揺れていたのかも知れません。それは、無、空無性(Nichtigkeit)が了解可能であることには、「無に対して自らをしっかりと保ち(sich halten)、無の中へと釣り出され引き止められ(hinausgehalten)ている場合においてのみである。無の最も内的な力を了解することが大事なのである。」(469)というような言い方をしているところもあります。それは「存在と時間」のなかの、死へ向かう存在というテーマと関連づけられもします。しかし、ここでハイデッガーはまた別な展開を用意します。


 ハイデッガーはそこで、ロゴスという言葉を持ち出します。

 ロゴス、それはギリシャでは、話すことが出来、したがってまた語ることが出来る根本能力とされています。ラテン語のratioからはこの話と言葉という定義が抜けていくのですが。古代においてはロゴスは、ロゴスを出発点として人間がその本来的な点に関して理解されるような現象でした。
 他方、動物の世界貧乏と比べて、われわれは人間の本質は世界形成的である、とハイデッガー先生は、あんまりきちんと言葉の説明をすることなしにのたもうておりました。さて、この世界形成的ということを説明するのに、ハイデッガーはこのロゴスという迂回路を選択します。
 この二つのテーゼがもし何らかの連関を持つのだとしたら、言葉と世界が内的に連関している、ということにならないかね?と、ハイデッガーは提起します。このへん、ちょっとずるい議論のもっていき方ですね。

 ロゴスの問題に関しては、ハイデッガーアリストテレスを援用します。真実を語ることないしは虚偽を語ることがその話の中にただ単に存しているだけでなく、そのことが根底に横たわる物として、その話の根拠と本質をともになすものとしてある、と。アリストテレスは、自分を詐欺にする、欺瞞的である、という中動相の言い方をしている。「ロゴスの本質には、とりわけ、欺瞞的でありうるということも属しており、このようなロゴスが挙示的なのである。」(486)ラカンの読者ならこのあたり、感じることは多いでしょう。
 つまり、真あるいは偽であり得るロゴスの可能性、そこが重要なのです。「そこに関係すれば覆蔵するものも覆蔵解除するものもともに可能であるようなそのような領野においては、既に、受け取られたものの或る統合(或る統括作用)のようなものが生起している。受け取られたものがいわば一つの統一を形成するかのような仕方で。」(アリストテレス「霊魂論」第三巻第六章)
 ですから、ロゴスとは、「ロゴスの本質はまさに、ロゴスそのものの中に「真かそれとも偽か」の可能性、「肯定でもあり否定でもありうる」可能性が横たわっている、という点にあるからである。真、偽、肯定、否定という四つの変容様式、・・・これら四つの変容形すべてへの可能性こそは、まさにロゴスの最も内的な本質にほかならないのである。」(530)とハイデッガーはまとめます。


「ロゴスとは一つの能力である。すなわち、それ自身において有るものとしての有るものへと自分を関連させることに関していかようにもなしうる(Verfugen)ということである。これと区別してわれわれは先に動物の振舞いへの可能性を、つまり、とらわれ-とりさらわれた関連させられ有への可能性を有能性(Fahigkeit)と呼んだのであった。」(531)
 さて、このようなロゴスの、結びあわせ、関連づけ、取り集める性格を、ハイデッガーはコプラ、連結、としての「あるist」という言葉と関連づけます。アリストテレスにおいての結合、結びつけられていること、統合を意味するものとして。ここで、ハイデッガー存在と時間というタイトルを選んだ理由がよく分かるようになります。
 これはまた、「としての(als)」という言葉とも関連づけられます。

「人間の場合のこの「としての」は或る関係のはたらきに属している。・・・互いに排除しあうこれらの関係諸様式のこの謎めいた結合(Zusammen)はわれわれには不思議で謎めいたままであった。多分ここに、「としての」が帰属している関係も含みこまれているのであろう。・・・立言においては多様な様式におけるこの有るものの有について話されているのであり、それが「あるist」において表現されているのである。」(525)「「としての」の本質を明らかにしようとすることは「ある(ist)」の本質つまり有の本質への問いと合流する。この二つの問いは世界問題の展開のために役にたつ。」(526)
 逆に言えば、このalsということが可能なのは、人間が何かに対して開かれているから、ということになります。そして、この開かれていることのおかげで「として」が可能になることで、人は世界現象のなかに入っていきます。だからこそ、世界とはこうした開顕性(Offenbarkeit)にほかならないのです。
 こうしてみると、ハイデッガーの言う「全体として」の意味も、ここから明らかになります。それは、アリストテレス的な統一ないし結合としての一なるものを有一般の本質規定としている、ということです。

 こうしたハイデッガーの議論は、存在という言葉にハイデッガーが託したものの意味を良く伝えてくれます。ロゴスとして。「として」として。あるいはシンボルとして。人間の持つ開顕性は、こんどはそのなかに、この取り集めの空間を作りだしてくれたのです。
 ある意味では、それは壺中天に似ています。壺の中の世界。なぜ壺かって?それでは同じくハイデッガー「有るといえるものへの観入(物)」からの引用を。


「陶工は、粘土の形を作っているだけである。いやそうではなく−空洞の形を作っているというべきである。空洞という目標をめざし、空洞という場所のうちへ、そして空洞という要素から、陶工は粘土を形づくって一定の形状に仕上げる。」(11)
「瓶の本質は、単一な四方界をしばしの間のやどりへと捧げる純粋な集約化としてある。・・・物は物化する。この物化のはたらきは、集約する。つまり物化のはたらきは、四方界を出来事として本有化しつつ、その四方界のしばしの間のやどりを、おりおりの風物のうちへ集める。」(17)
 次回は、簡単なまとめと展望を作ってみましょう。