世界貧乏(4)

 さて、世界貧乏、というわけのわからないこの表題、それをここまでみてきました。
 ハイデッガーにとってそれは、人間が世界に向かって開かれているということとの対置で語られたものでした。大急ぎで言っておけば、そもそもこの「世界」という考え方そのものが、その開けによって成立したものなのですから、この言い方は少し不正確ですね。
 面白いのは、その開けを保っておくためには、無や死といった空無(Nichtigkeit)に対して自らを保っていることが・・・、なんていう、まあなぁんか悲壮感漂う、まぁまぁご立派だこと、という「存在と時間」くらいのころの態度のはなしが、「退屈」と「ロゴス」という二本立てに置き直されていることです。

 それは、なんでしょうか。ある種特別な心構えから、日常的な話に例をとって議論を進めたというだけのことでしょうか。
 私にはそうは思われません。まあ、その理由は追々みていくとして、一言で言えばそのことによって圧倒的に話が豊かになったと思われるからです。

 まあ、個人的は感想はさておいて、ハイデッガーの問いの進みをさらに追いましょう。


「ロゴスのこの能力の根底に何が横たわっているのか?・・・その次元というのは先の根本気分の解釈が先ず最初われわれを導き入れるはずだったあの広域と不気味性と以外のものではない、ということを。」(531)
 この広域と不気味さ、その空間がロゴスの根底にあります。そして、ロゴスはそこで人間がとりうる一つの態度なのだ、とハイデッガーは言います。つまり、人間のなかには、このロゴスを可能ならしめる一つの根拠としての開けを、遊動空間Spiel-Raumを、もたねばいけないことになります。その場所もまた、「人間自身こそがその場所なのである。人間のこの本質は前に、人間は世界形成的である、というテーゼの形で暗示された。」(537)こうして、ハイデッガーはロゴスと世界形成とを結びあわせるに到るのです。

 退屈の話から、われわれはずいぶん長々と議論を追ってきました。最後に、これが「存在と時間」のもっともよい手引き、あるいは裏口入門になっている箇所を指摘しておきましょう。世界、単独性、有限性、この三つ組を取り上げて、ハイデッガーはこう説明します。有と現有はそれぞれ存在、現存在に直してあります。私はその方が良い訳語だと思うのですが、どうして有を推す人もいるのか、その理由など教えて頂ければ幸いです。こういうあたりの、たぶん哲学プロパーのひとには常識的な知識が欠如しているあたりが、門外漢の悲しさなのですが。。。


「退屈という根本気分は現有の時性に根ざしている。現存在の時性と、したがってまた時の本質そのものとが、これら三つの問いのための根なのである。これら三つの問いはそれら自身において、それらの独特の統一において、形而上学の根本の問いを三つ繋ぎの形で表現している。この形而上学の根本の問いを、われわれは、存在への問い−存在と時、と呼ぶ。」(286)

 退屈なこと。それはわれわれを文字通り「所在なく」、存在する所なく、させるものです。それは、時間というものの厚みと広がりが、われわれには為すすべのないものとして、われわれを襲ってくるものである、ということです。われわれのその有限性。その中でわれわれは、環界のなかでその居場所をなくします。動物に世界貧乏という言葉を充てるより、人間に環境貧乏と充てた方がよさそうなくらい。その、環境からの切り離され、それはわれわれの単独化をもたらすものであると同時に、自由をもたらすものでもあります。ある意味では、この環境プラス開け、ないしは空虚、無が、人間の世界をもたらし、だからこそ人間はその開け、ないしは無を用いて、世界を形成していく生き物でもあるのです。

 退屈から、現有、あるいは現存在を見ていくこと。そして、そこから世界と単独化へ・・・。この二つの対をハイデッガーは、広域と尖端、地平と瞬間・・・という風に並べていきます。


「結局、両者の統一と繋がりとの本質とは或る破れ(Bruch)なのであろうか?この現有がそれ自身の内で破られること(Gebrochenheit)とは何を意味しているのだろうか?われわれはこれを現有の有限性と名づけ、有限性とは何をいうのか?と問う。この問いとともに初めて、われわれは退屈というあの根本気分において自らを語り出さずにはおかないもの、そういうものをすっかり取り込んだ、余すところなき問いを獲得することになる。深い退屈という根本気分の内で鳴り響き、われわれを貫き気分づけるもの、それは現有の有限性ではないのか?」(282)
そして、この世界と単独化という二つの問いを統一するものとしての有限性の問いとして、あの長々とした退屈への問いが生じてくるのです。

 しかし、それにしても気になるのは、冒頭の引用箇所にやや唐突に出てきた不気味という文字です。広域と不気味、ということは、それは時間?しかし、それだけには留まらないかも知れない何かが、ハイデッガーのこの講義のそこここに見いだされるのです。それは「秘密」という言葉。

 ハイデッガーはまず、困窮Notという言葉を取り上げます。それは、空虚という言葉が意味しているものを指します。けっきょくこの空虚放置がわれわれの現有の内で振動しているのであり、この空虚放置の装置は或る本質的困却の不在なのである、と。


「われわれの現有の内に秘密(Geheimnis)が欠けていて、したがって、どんな秘密でもともなっているはずの内的な驚愕、現有にそれの偉大さを与える内的な驚愕が不在なのである。困却のこの不在こそ、根底において困らせるもの、底深く空虚放置するもの、すなわち、根底において退屈させる空虚なのである。」(273)
偶然的なこと(Zufalige)というのはすべて、われわれにとってはただ、われわれがこれを待ちつづけた場合にのみ、また、待つことができる場合にのみ、いつか起こるかもしれないことになり、また実際起こる、というだけのものである。しかし待つことの力を獲得するのは、或る秘密を尊敬するような人だけである。」(553)

 秘密。Geheimnis。この言葉には、おうちheimが隠されています。ハイデッガーがそれで何を言いたかったのか。そして、困窮と空虚という組み合わせにむしろ対立させれおかれている、困却の不在とは?そして、それが偶然的なことを待つことを可能にするとは?
 わたしがここでどうしても思い出さざるを得ないのは、やはり精神分析的な諸ターム。この待つこと、中井久夫ならカイロスといったであろう待つことの意味。そして、肯定と否定とを一つに統一しながら取り集めるもの、としての、自由連想のなかのロゴス。無意識は否定を知らない、というフロイトのテーゼや、「否定」論文の意味は、ここに見事に説明されていないでしょうか。
 ハイデッガーが、ロゴスのその統一という性格をアリストテレスを引きつつ語った箇所、そこでのアリストテレスの続きの文章はこうなっているのです。
「ちょうどエンペドクレスが、「そこには首のないたくさんの頭が生え出て」、そののちにそれらは愛によって結合される、と語ったように」(「魂について」中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001、156頁)これは、ラカンバタイユを念頭に置きつつ語る欲動の「無頭の主体」を思い出させないでしょうか。あるいは、S1の群れがぶんぶんぶん蜂が飛ぶ、群れ集まるララングの空間とラカンが語るものを。

 さらにいえば、als、あるいはこのシンボル形成という問題。この、als、かのように、という言葉は、たとえばハンナ・シーガルの「象徴等式」にみられるような、精神病圏の患者さんにおける隠喩の不可能性、ということとも密接に関係してこないでしょうか。それはこの「かのように」という、取り集める力を失って、一つの絶対に還元不能なものに固着してしまうということでした。(このへん)そして、誘導空間Spiel-Raumとしてのファルスのシニフィアン。いろいろと連想は尽きません。

 一般に、ハイデッガーは「現存在から存在へ」という方向をもつ前期と、「存在から現存在へ」という方向をもつ後期とに分かたれる、という風に言われている、らしいのです。それがどういう意味なのかは、私にはまだ分かっていません。しかし、このあたりの微妙な不可解さを、ハイデッガーの今後の読解において念頭につねに置きつつ読んでいくことで、もしかしたらそのあたりも見えてくるのかも知れない、というくらいに示唆的に、私には思われます。