まちなかをお散歩するエディプス

 さて、先日知人とガブリエル・タルドの『社会実在論Realite sociale』の話をしていた時のこと。下訳の一部を見せてもらいながら、ああ、このrealiteってほんと哲学的な意味でのそれなんですね、などと感想を漏らしていたりしたのでした。いわゆる「社会実在論は社会を実体化してしまいそしてその『客観的把握』を云々」というニュアンスとは、だいぶ違う何かがあるのです。しかし、そのこと自体に関しては、またいずれ論じましょう。

 いま気になるのはその時代性。じっさい、ただの群衆が、そのランダムな運動を捨ててそれなりの規則性やパターンをもっていくのはなぜか、という点に関して、現在より遙かに真摯なレベルで議論がつづけられていた時代です。いま、たとえば技術決定論に抗して「社会決定論」なるものを掲げる論者が、肝心の社会とはなにか、決定とは何かについては、政治経済の慣習のごた混ぜのような見解しか持ち合わせていないのに比すると、この時代は遙かに学問的です。それは、強いて病因論について答えようとすると(まあ答えないのが礼儀なのですが)、すべてがストレスと自律神経失調症に放り込まれてしまう今日の神経症圏の症状の見立てのおおざっぱさに良く似ています。

 まあ、それはそれとして、この肝心の実在、レアリテrealite、レアリテートRealitat、哲学ではどんな意味だっけ、と疑念に感じたのがことのはじまり。ラカンの読者であれば、ラカンが「フロイトWirklichkeitとRealitatを使い分けていた。」と主張していたことを思い出す向きもありましょう。
 もちろん、タルドフロイトは(多分ちょっとしか)関係がなく、ラカンタルドは多分ほとんど関係がないのですが、しかし、フロイトタルドといった十九世紀人、そう、古典的な哲学的素養をみっちりと身につけていた人たちですから、そのあたりをおさらいしてみることは、きっと大事なことでしょう。

 というわけで、何か良いものはないかしら、と漁っていたところ、木田元先生の「ハイデガー存在と時間』の構築」(岩波現代文庫、2000)に良いまとめがあったので、それを借用してみることにしました。

 ハイデッガーは先ず、カントのもちいるRealitatの概念の解説から話を始めます。
 AはBである、たとえば、犬はワンワンと鳴く(ラカンの研究者ならにゃんにゃんと鳴くこともある、と茶々を入れてきそうですが)という命題があるとして、この場合、ワンワンと鳴く、は犬という主語概念のもつ事象内容を示す述語、つまりrealな述語です。でも、この場合、じっさいに犬が存在するかどうかは問題ではありません。
 反対に、Aがある、といった場合、その場合はA、たとえば犬がいなくては困ります。なぜなら、この場合の「ある」は主語概念の事象内容を示すものではありません。主語概念に対応する対象について判断主体が行う定立作用、ポジツィオンです。

 カントにとってこの話が大事だったのは、神様は完全じゃなきゃいけない、だからその事象内容には存在するも含まれる、だから神は存在する、という、一一世紀のアンセルムスによって生まれ、トマス・アクィナスによって否定され、デカルトによって再提起されたこの命題を否定する必要があったからです。

 で、ハイデッガーによると、カントにおいてはRealitatとobjektive Realitatの区別があるのだそうです。後者に関しては、Wirklichkeitとほぼ同義。客観的な事象として、現実的なものとして経験される対象の中で実現されているもののことです。ラカンフロイトの区別に当てはめたものとほぼ同じですね。ラカン本人にとっては、現実的なものreelと現実性realiteの区別に。
 ハイデッガーは更に、この区別はデカルトに遡るものであると議論を進めます。デカルトにおけるrealitasは、たとえば誤謬とかいうものはレアルなものではない、という時に使われます。別にこの世に悪やら誤謬やらは存在しない、という意味ではありません。事象内容という面で見ればある自立した事象内容の否定にすぎないものだから、という意味でなのです。さっきの神の存在論の反対側ですね。

 このあたりまでいくと、例のカントの小咄も理解できるようになります。頭の中で想像する一万円と、財布の中の一万円。どちらも同じようにリアル。妄想の一万円がどうしてリアルなのさ、ということですが、この場合のリアルは事象内容、Realitatのほうなのです。で、wirklichに財布の中にあるかどうかは、また別の問題と。木田先生はここで、事実存在Existentiaと現実存在Dasein、として現実性Wirklichkeitの三つをほぼ同義と並べます。

 さて、ここまではお勉強なのですが、ここで、現実性とされたWirklichkeitのwirkenは、働きかける、といういみです。英語ではactuality、ラテン語ではactualitasにそれは当てはめられますが、それはact, actusという「働き」を指す言葉が含まれているからです。
 木田先生の説明によると、それは中世哲学では神が創造するから事物は現実に存在するから、神の働きかけ=現実存在というわけで当然なのだ、と指摘します。
 カントにあってはそれが逆転する、というのは周知の通り。カントは現実性を成り立たせる働きを認識主観の行う定立作用と考えた人ですから。ハイデッガーはそこで、カントにおける事実存在、現実性を成立させているこの「働き」は、認識主観の行う表象作用Vorstellungである、という風にいうようになります。神が造るのか人間が造るのかはえらいちがいだ、と個人的には思いますが、木田先生の語るところのハイデッガーによると、まあなんであれ無いものをそこに現前させる働きがある、ってことにはかわりがないさ、というのだそうです。

 ハイデッガーは更に遡ります。今度は、スコラ哲学における本質存在と事実存在に。前者は、「あるものが何であるか」つまり犬なのネコなの?という場合の存在を問題に、後者はそこに犬が居るか居ないかを問題にする場合の存在を意味します。RealitatとWirklichkeitの区別をここでも当てはめましょう。

 さて、ここまでくると最後はアリストテレス。現実性、を意味するラテン語のactualitasはギリシャ語のエネルゲイアenergeiaの訳語です。エネルギーですね。ergonなら活動、働きですから。だから、エネルゲイアは現実態。対になるのは可能態のデュナミスdynsmisです。デュナミスな力が現実に発動してエネルゲイア
 しかし、ハイデッガーは、エネルゲイアは可能態にあった質料、材料が制作過程を完了し、一定の形相の中で自立した作品としてのほほんとしている状態を指すのだ、と言います。ですから、ハイデッガーによれば、カント的な主観の作用による現実性の構築という考え方には、こうしたギリシャ的な制作の考えが受け継がれている、ということなのだそうです。存在していることと、制作されたもの。ポイエーシス。それは、お手本を見ることから始まります。お手本の形を、形相を。でも、お手本が目の前になくても作れるようになるのですから、それは魂の目で見ることです。テオーリア、観照ですね。で、実際に材料からものが出来ます。ハイデッガーにとっては、樽が出来たんでしょうか。
 だから、質料は「それがある」「それがあったところのものであるその存在」事実存在、the being what it was、ということになります。本質存在の方は、the what is itですね。

 さて、とある箇所でラカンはいいます。

フロイトはWirklichkeitとRealitatを区別して使っており、第二のものは特に心的現実のために取り置かれている。」(Ecrits, p.68)
「wirklich、操作的、とその意味を取ろう。」(Ecrits, p.69)

 この区別は、セミネール第四巻第二章の中でそれなりの長さをもって考察されています。たとえば、川があって、水があって、そして水力発電所がある。このとき、われわれはこの川の流れにエネルギーがあると考えます。しかし、ラカンは、その川の流れにエネルギーがあると思うな、と主張します。それがエネルギーになるのは、水力発電所が建てられたあとになってから。ラカンは、そのようにして、水力発電所というものとの連関にはいることによって初めて存在するエネルギーのことを、Wirklichkeitというふうに呼んでいます。この話、ラカンはリビドーなり欲動なりを、生物学的に実測可能な、生体に含まれているエネルギーのようなものと区別するために述べたのでした。

「「エス」は主体の中で大文字の他者、《他者》、《他者》のメッセージを介して「私」になることができるものです。」(seminaire IV, p.46)

 だとすると、Wirklichkeitとしての《他者》、が一方にいることになります。これは、事実存在として、いるかいないかで語られるもの、ということになるでしょう。他方に、Realitatとしての心的現実。これ、なんでしょう?
じつは、1975年1月13日の講義で、ラカンはこんなことを言っています。

フロイトにおいては心的現実とは何でしょう。それはエディプスコンプレックスです。」(Ornicar?, no.3, p.103)

 さっさと種明かししてしまうと、じつはレアリタートのはなしをしながら、さて、ラカンはエディプスコンプレックスを心的現実といっていたが、あれはどういう意味だったのだろう、ということを考えていたのでした。ですから、そうそうハイデッガーがどっかでなにか書いていたけど、あれ、どういう話だったか、あそこからブレークスルーがないだろうか、と思い立ったのです。うまくいけば、事象存在としてのエディプスが、社会的実在としてまちなかをのこのこお散歩しているところが描けないだろうか、と。
 しかしまあ、話はなかなかそうはうまくいかないもので、かっこだけ思想史的に(おお、いちおうそれが専門のはずなのに)ちょこっとラカンの発言を追ってみるだけで、そうは綺麗に話がまとまらないかも知れない、ということになったのです。

 ここまで見た感じだと、そうすると《他者》としてのWirklichkeit、エディプスコンプレックス・心的現実としてのRealitat、ということになる、という感じなのでしょうか。でも、これ、困ったことに、「エクリ」所収の『心的因果性について』と色々なところを齟齬します。まあ、30年ほども前に書かれたもの(1946/50)ということもあるのでしょうが。

「エディプスコンプレックスは、その非定型的発生によってヒステリーのあらゆる身体的結果を引き起こすことが出来るだけでなく、ふつうその現実感をも構成するということが経験の中で明らかにされています。」(Ecrits, p.182)

 この箇所ですと、エディプスコンプレックスは、ほぼ《他者》に近い位置に置かれています。ちなみにその前に引用したp.68,69は『われわれの来歴』ですから、1966年。セミネール第四巻の箇所は1956年。つまり、60年代以降、このあたりに、理論的にはエディプスコンプレックスをWirklichkeitからRealitatへ移行させるような動きが起こったことになります。
 さて、意に反して予定に反してだいぶ長くなってしまったので、続きは後日に回しましょう。