うそからでたまこと

上手にうそをつくには、と聞かれたときは、いつも答えは同じ、うそをつかなければよいと答えることにしています。
人間不思議なもので、どんなことでも疑ってかかる慎重で賢明なひとでも、「自分が見抜いた」「自分だけが気づいた」...etcと思ってしまうと、それだけで批判能力がかなりのところ衰えます。ですから、本当のことだけをいい、でもちょっと怪しげなそぶりのひとつも見せてやれば、慧眼を誇る人ほどそこで勝手に裏を読み始めてしまい、結果こちらは何一つうそをつくこともなく、うそつきの汚名を被るリスクもなく、相手をひっかけることができることになります。

ラカンがクラカウに行くユダヤ人のジョークを引きながら、動物はうそをついて相手を騙すことは出来るが、人間は真実を述べて相手を騙すことが出来る唯一の生き物だ、といったのは、そんな意味でもあります。
「どこにいくんだ?」「クラカウへ」「うそをつけ、お前は本当はクラカウに行くくせに、クラカウに行くだなんて言って俺を騙す気だろう!」
ラカンの説明が手短なのでわかりにくいですが、これは上述のような小芝居を打っているところを念頭に入れながら想像すると、割と理解しやすくなります。

でもある時気づいたのは、そう考えるとこの話、急にベイトソンダブルバインド論と近くなってくるなあ、ということ。

周知のようにダブルバインド論とは、たとえば母親が幼児に「お前を愛しているのよ」といいながら態度が極端に冷たい、などなど、人間がもつ複数のメッセージのレベルが互いに矛盾しあうケースのことを指しています。いわば、決定不能の中に投げ込まれるわけですね。
どちらかのメッセージに盲目的にしがみつくか、どちらも無視するか、応対はいろいろですが、ベイトソンはこれを分裂病の病因論のモデルに想定したのでした。
もちろん、こういう態度を取れば幼児が発症する、などという短絡的な因果関係が成立するわけもないでしょうが、広義の分裂病圏でこのような人間のメッセージのやりとりに際する複数のレベルの相互依存関係の処理に対する不得手さがかなりはっきりと出てきている以上、すくなくとも「分裂病者の論理学」という風に考えることは可能でしょう。

そう考えると、真実を言うことでうそをつく、というのは、同時に分裂病の病因論的なダブルバインドの存在を前提とした上で、ことばのレベルよりは仕草のレベルがメタレベルにあると見なすことによって、言語表現のレベルでは真実を述べつつけたまま、メッセージとしては偽のメッセージを発信できる、あるいは発信されたと受け取る、ことが可能なのだ、という意味合いになりますね。これは、分裂病が極めて人間的な真理を思念している、ということなのかもしれません。

ただ、そのときふっと思ったのは、人間どうしてもうそをつくときはささやかな仕草や癖でそれを漏らしてしまう、ということ。
どうしてだろう、といつも思っていたのですが、あれはうそをつくことで自分の中で曖昧になってくる真理と虚偽の関係性を自分自身で確認する作業なのかもしれません。
お前はうそをついていると言うことに俺は気づいているよ、と、体の方が、あるいは無意識の方が、あるいは《他者》のほうが、合図をくれるのかも。だから安心してうそをついても大丈夫、と。そして、われわれは、その合図の方に優先権を認め、そちらを立てることによって、うそをついたことで曖昧になった真理と虚偽の境界線を定めなおし、確認するのかもしれません。
自分の中の誰かに向かってうそをついている、かぎりで、我々は健全なうそつき。そして、その誰かが居なくなって、完璧なうそがつけるようになったとき、それは、われわれ自身の心の安定性を揺るがしてしまうのかもしれません。

もっとも、そういう人たちはつねに存在します。そう、女性たち。あのひとたちは、今述べたことばがそのまま真理です。そして、その真理が自分を揺るがしてしまうことを潔く受け入れ、その真理が築いてくれる新しい自分の中に身を投じることをおそれません。
男性達がダブルバインドを複数の論理の優先関係を定め直し、確認することで解消するのだとしたら、女性達はすべてをパロールのレベルに還元することで解消するのでしょうか。まあ、後者の方はまだちょっと定かならず、といったところです。。。。