なべとやかん

ジジェクイラク論が発売になりました(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309243134/250-6508915-5686609)。翻訳のかたは先ほどのバディウの訳者であったような気がします。お仕事盛りでしょうか。日本先行発売(?)という話も以前出版社の広告で見たような気もしますが、やはり旬のもの、出版社もそうとう気合いが入っているのでしょう。副題は「ユートピアの葬送」となっていますが原題では「借りたやかん」。フロイトの「鍋を借りたユダヤ人の言い訳」と大量破壊兵器の見つからない米軍の言い訳をひっかけたものです。

とはいえ、内容は必ずしもイラク情勢に限るものではありません。分量的にも補遺の方が長いくらい。現在の権力のあまりにあからさまな力の誇示に対する的確な分析と、左翼的抵抗の貧弱さを例によって時として極めてドグマティックな立場から批判する、という切り口も相変わらず。ですがそこで分析の対象となっている事象が日本でもほぼ平行していることに、多少の感慨が。昔は社会事象はアメリカから20年遅れで日本に出現するとされたものですが。

アメリカはヨーロッパの歪んだ鏡であり、この戦争はアメリカ対ヨーロッパの最初の戦争であること、そしてヨーロッパはこの戦争に敗北したのだと言うこと。言ってみれば、ヨーロッパがそれ自身の価値として掲げていたことの裏面の露呈がアメリカであり、それゆえにヨーロッパは為すすべもないこと。その対立をジジェク超自我(第一世界としてのアメリカ)とエス(第三世界としての米国植民地)が結託し自我(ヨーロッパ)と対立する、というアドルノ的図式を用いて説明します(p.49)。アドルノのこの原典は早速探さねばなりません。そして、同時に我々の社会においてもこれは社会現象にも個人の症状にも応用可能です。ネットの世界のヒキコモリが政府の忠実な代弁者となり、個人の症状は自我による妥協の産物としての抑圧とその回帰としての複雑なメッセージではなく、ますます身体そのものへの攻撃(リストカット他)へ縮約されていくこと、などなど。

理論的な面で指摘しておきたいことがあるとすれば、それは現実的なもの、の扱い。セミネール四巻で「フロイトの女性同性愛の症例」を論じる際、ラカンはこの女性にとっての弟の誕生を現実的なものと呼びました。ただの弟が、あのいささか秘教的な色彩を帯びた「現実的なもの」のカテゴリーに入る?と、疑問に思い、そしてこのころのラカンの「現実的なもの」という概念はまだ後年の複雑なそれとは違うのね、という風に読む向きも多かったように思います。でもそれは違う、ただの弟が現実的なものとして機能し始めること、そのことの方がずっと複雑で、かつ考察に値することなのです。そして「ありえないこと」として、かつ「起こってしまったこと」としての、その現実的なものを巡って、我々は動き始めます。それを見えない準拠点として。そしてラカン的な「行為」とは、そのあり得ないが起こってしまった行為を起こすこと、とジジェクは指摘します(p.113)。

問題はその質的な断絶点、排除された外部の存在をどう捉えるか、でしょう。ジジェクはいわゆる「マルチチュード」という流行の概念は、その分断を無視している限りにおいて不十分だ、と論難します。しかし他方で、その質的な分断を量的な差異に、いわば均質なモナド的空間の中でのネットワーク形成の濃度の差異に還元できる、あるいはそれを還元する形の社会にむかって変容している時代に我々は立ち会っているのかもしれない、という可能性は否定しがたいものがあります。いま、私が立ち止まっているのはこの二つの狭間です。

それにしても、英語では借りたやかんなのですね。原文では鍋のはずですが。まさになべやかん。。。