守護神?


五月も終わり。終わりとはいえ未だ五月。なのにこの異様な蒸し暑さは何でしょう。盆と正月が同時にやってきた、とは言いますが、正月の方は置き去りにしてお盆の方が先にやってきてしまったような暑さです。ご先祖様も間違えないか心配。

さて、ヘーゲルを無意識という概念の創始者の一人、と位置づけるのは、とうぜんのことながら無理があります。しかし、ヘーゲルはあの絶対知のひと、カチコチの学者さんというイメージとは裏腹に、実にそのへんの話もよくよく哲学的に考えてみる人でした。当時大流行したメスメルの「動物磁気」もその守備範囲です(「精神哲学」船山信一訳、岩波文庫、上巻210ページ前後から)。今で言うと催眠術ですね。実に働き者。そして、その分析の中には、ご先祖様ならぬ「守護神」という訳の分からない話が出てきます。こんな抹香臭いヘーゲル翁と無意識、が今日の小ネタ。

自分の中で私は二重だ、とヘーゲルは言います。一面では私が私の外面的生活および私の一般的な見方から私として知っているもの。他面では特殊な仕方で規定されている私の内面における存在。
この「私の内面における特殊性」が私の宿命を形成します。底までは良いのですが、ヘーゲルはそれを「神託」といいます。あらゆる決意はこの神託の託宣に依存している、とも。

この二重性は、当初は存在しません。感じる個体性、とヘーゲルは言います。つまり、感じることはあってもそれを反省し、自己についての分析に変えることがない。そして、後であれば主体的な、という意味で使われるであろうような自我の働き、主我的な個体性は、別の人が代わってくれても良いのです。この場合は、感じる個体の方は、非独立的な述語です。例えば母子関係、とヘーゲルは言います。この場合の母が守護神である、と。
ヘーゲルはこの分離可能性を、催眠術師と被術者の関係に適用します。

とはいえ、面白いのはここの論理的な階層。神託、は感じる個体性の感じるままの動きの絶対性、言ってみれば個人の性向の盲目性とは違うのです。私の内面の特殊性は、私ではない、あるいは私のものではない。この最初の他者が巣くっているのです。

「個体の具体的存在には、彼の根本的諸関心と、彼が他の人間および世界一般と共に形成している本質的な・また特殊的経験的な諸関係との総体が属している。この全体性は個体に内在的であり、そしてさきには個体の守護神と呼ばれた。その意味で右の全体性は個体の現実性を形成している。個体の守護神は意欲し思惟する自由な精神ではない。」(217)

そう、ですから自己が己の外に出、己を客体化し、自己意識となって我々を客観化するに至る過程、通常そうてみじかに説明される(んじゃないかな、と・・・)自己意識の冒険、そこに、水面下に沈んでしまうもう一つの層をきっちりヘーゲルは設定しているのです。それは催眠術師とのからみで、つかの間浮上しただけのものなのか、それともヘーゲルの主体構造論に置いて根本的な一要素なのか、それはヘーゲル学者ならぬ身には定かではありません。

ジャン=リュック・ナンシーはその良くできたヘーゲルのレジュメ「ヘーゲル 否定的なものの不安」のなかで、「動揺」ということばに一項目を割き焦点を当てることで、この他者の存在を描いています。ヘーゲル論における他者の役割は、あまり描かれることのないテーマではないでしょうか。それだけに貴重なものかと思います。だてに催眠論もものにしていませんねナンシー先生(http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/2718602554/qid=1085938863/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl14/102-2507624-0806544?v=glance&s=books&n=507846)。

この他者がラカン的な《他者》にどう似ているのか、あるいはラカン本人がここを知っていたのか等々、興味は尽きません。そして、ここをナンシーにならって不安や動揺ということばで描いてみせることによって開かれてくる射程、それもまた興味深いところです。