こうもり傘とミシンと・・・

初夏の陽気を通り越して、もう夏の草いきれさえ感じさせる今日この頃です。さすがに朝夕はそれでもちょっと肌寒いような空気に思わず一日開けっ放しだった窓の存在に気づかされるわけですが。そんな昼と夜の出会う夕方の何時間かの風は実に素晴らしい、そんな日々が続いていますね。

とかのんきなことを言いながら、あほな男どもは寄り集まると昼も夜も晴れも雨も関係なく下ネタなんぞふっていたりするわけで、そんなたわいもない一日に生まれたある一言。

オナホールにバイブ刺したらどうなりますかね」

・・・シュールすぎる。想像するだにシュールです。一同そろって「手術台の上のミシンとこうもり傘」を思い浮かべたほどのシュールさです(ロートレアモンせんせい済みません・・・)。しかし、なにがシュールと言って、この二つ、一緒になっておかしいどころか実に相補的なのです。どちらも同じように異性の性器を人工的に代補すべく作られたささやかな玩具。その日陰の二人がひっそりと身を寄せ合って互いを満たし支えあったからといって、なんのおかしいことがありましょう。

のはずなんですが、このシュール感はいかんともしがたい。そんなわけで、必死こいてその理由を考えてみました。わたしの仮説はささやかながらこんな感じ。そもそもその完璧な相互補完性がおかしみのもとなのではなかろうかしらん、と。
発想は基本的にいんちきラカニアン。ラカンプラトンの「饗宴」のアリストファネスの神話をからかっていたところからの着想です。男女の相互補完性は、まあしばしばラカンがからかっていたところです。ボールみたいにコロコロ転がってるらしいですな、あれって(爆笑)、みたいなこと、ゆってましたよね。そういえば中国でもむつみ合う男女を「背中が二つ腹がない化け物」といったりしてますね、古典では。

そんなわけで、男女の相補性というのは、愛の崇高さの対極、滑稽の極みなのではないかしらん、と思った次第。まさかバイブとオナホールラカン理論を実感することになるとは思いもよりませんでした。まあ検証とはいいますまい、証明も解説も無しの感想ですから。。。

でも、そういえば、このアリストファネスの神話、男どもはだいたい喜んで愛の美しさのあるべき形としてもてはやすのですが、女性陣には評判悪い、ような気がします。まあまわりの女性陣にアンケートとっただけなのですから、女性陣という言い方もどうかとは思いますが、それにしても不評。
だいたい、そんな神話は女性達は胎児と母親の間ですぐにも具現できるのですものね。そんな美しい相補性に男が割り込んでくるな!というところでしょう。可哀想な男たちは、つねにどこでも余計もので、胎児に嫉妬しながら相補性の一極になれることを夢見ていたのでしょうか。

なんていう馬鹿話をとある先輩に伝えたところ、曰く「刺してる瞬間は楽しいかもしれないよ、やってる本人は。まわりから見たら空しいだろうけど」

そりゃそうだ。。。