愛は陽を受けて笑う小石

L'amour est un caillou riant dans le soleil
(ラカン『エクリ』508ページ)

誰の句なのか、知らないのです。一応ラカンの研究者なのに。。。
とはいえ今日はその話。
あまり行儀はよくないのですが、この陽気、泉川に足を浸してぼおっとしながら、ころころと転がる川底の小石を見ていました。そこここでかちかちとぶつかり合い響きあう石をみながら、ふと、ラカンシニフィアンを鎖としか喩えられなかったことを思い出します。それは連想実験という精神分析の起源の一つの記憶のせいなのでしょうか。ドゥルーズならセリーというかも知れません。しかし、無意識の中でのシニフィアンたちは、もっとずっとその小石たちに近い、流れの中を様々に転がりあっていくもののようにも思えますし、それは鎖やセリーといった一本の流れには還元できないでしょう。おそらく、複合したセリーといってしまうことさえ無理な気がします。

テレパシー。周知の通り、フロイトは分析においてその現象を目の当たりにしていました。とはいえラカンが整理しているように、それは遠く離れた人たちの間に思念が伝播する、とかいうようなSF的な形ではなくて、むしろ一つのシニフィアンが別々の人の心の中でこの小石たちのように転がりはじめ、その転がりの効果をもたらす、といったものに近いかたちです。いってみれば、それは共鳴です。「ディスクールのコミュニケーションのネットワークの中での共鳴」(エクリ、265ページ)同じシニフィアンがそこにあるということ、それはそのシニフィアンを介して、ディスクールの同じ一つの輪の中に二人がいるということです。この共鳴現象をラカンは転移と呼びました。分析の現場の狭義の意味の転移を離れたほうがよい、とは思いますが。愛は陽を受けて笑う小石、その笑い。それは、水面の下にざわめきあう小石、でも良いのかも知れない、と、まあぼおっとしながら考えていたのでした。

とはいえ、問題があるとすれば、この共鳴ということ。共鳴ということが可能なのは何故なのか。そのように戯れるように転がりあいぶつかり合うことが可能なのは何故なのか。

しかし、その続きはまた明日。