モグラの伝言

ネットの世界では、いろいろなものが無料です。というか、無料でした、というべきでしょうか。
理由はいろいろあるのでしょうが、まあ、元々が学者さんのネットワークだから、というのは大きな事です。学者さんは自分の名前が出典として記載されてさえいれば、別に自分の書いたものが他人に利用されていてもなんら気にしない生き物です。というかむしろ嬉々としてしまう生き物です。特に報告しろともいわないでしょう。JASRACとかそのあたりのひとたちとは対極にある生き物です。まあ立場が違うのだから、どちらが良いとか悪いとかいうことではありません。
でも、お金の話はさておいて、その心性の差はなんなのでしょうね。

ぼんやり考えたのは、かつてグールドが語ったこと、つまり、18世紀までは全ての聴衆は同時に音楽家でもあった(もちろんうまいのも下手なのもいたでしょうが)、そして19世紀に誕生した「純粋な聴衆」というものの存在が、音楽の在り方を変えたのだと。
純粋な聴衆、それは純粋に聞くだけの存在です。独裁者ということばの語源がそうであるように、語ることが誰か一人にしか許されていないのだとすれば、それは独裁下の存在です。
ではもし、小石のように自由に戯れるシニフィアンが他のシニフィアンに共鳴しあう、そんな図式が作曲家でもあり演奏家でもあり聴衆でもあるという点で均質なモナドに支えられているのだとしたら。ライプニッツの定義通り、このモナドには窓はありません。それはモナドが相互に作用しあわないわけでも、また誰か独裁的なシニフィアンにツリー状に組織されているからでもありません。均質なモナドはすべてが初めから一つのシニフィアン、正確には一つというシニフィアンのさまざまなアスペクトにすぎないからです。

学者の世界もまたしかり。引用する研究者は引用元の文献の受動的な聞き手読み手ではありません。引用を成すことで、同時に別の文献の著者になるのですから。いってみればそれは水面の下を転がりはじめた小石にぶつかって共鳴する別の小石。その意味で、この世界は均質なモナドの群れで出来ています。そして、やはりこのモナドにも窓はありません。いや、研究者のたこつぼ専門馬鹿化の批判ではなく。。。それは、研究者、ないしはその著作というものが、学という、あるいは知という、人類が営々と築き上げ伝えあってきたネットワーク総体の一つのアスペクトにすぎないからです。モナドには窓はない、というより、モナドそのものが窓なのだ、といってもいいのかもしれませんが、ライプニッツの研究者ならぬ身としては、そのへん、どう位置づけられているのかはまだまだ知識不足なのです、すみません。

とはいえ、この総体、あるいは一つということ、それをラカンならUnというでしょう。

均質化、というと、なにやら没個性化や大量生産化のようなニュアンスを残しますが、それは多分ちょっと簡単すぎ。それは共鳴化というべきだったのかもしれません。共有された固有振動数
逆に言えば、聴衆の誕生は、その共鳴をなにがしか禁じられた主体の誕生だったのでしょうか。それとも共鳴は別のところで別の形であらわれるようになったのでしょうか。
それはまたいずれ