パンと見せ物を

20世紀の音楽、それはやはりロック、電気音楽・・・というふうに考えていくと、それはなにやら示唆的です。18世紀までの音楽が持っていた、共鳴音の豊かさ、倍音の豊かさ、そしてその共鳴を伝えあうことから、音楽はおおきく変遷します。強烈で反復的な振動によって、共鳴というよりはもはや衝撃波でしかないもので聞き手を殴り続けること。聞き手はそこで自分の音楽を共鳴させることは出来ません。もちろん、聞き手は無能ではありませんから、反撃もします。ですがそれは音楽以外の手段で。踊り、痙攣し、跳びはね・・・これもまた一つのコミュニケーションの在り方であることは確かですが。もちろんクラシック音楽じたいもその流れと無縁なわけではなく、モダン楽器の進化あるいは変化はより強く大きな、輝かしい音を求める方向に向かっていきました。

ここで、聴衆と演奏者、作曲者の相互依存が奇妙な形で生まれます。それはジジェクの言葉を借りれば相互受動性inter-passivityと言ってもいいかも知れません。聴衆は何一つ自分で音楽を発することがない、純粋に要求の主体となるがゆえに、その絶対的な受動性がある意味能動性に転じます。まあ、金出してるのは俺、というのはいつの世も絶対の切り札です。。。とはいえ、その絶対の受動性がなくなるわけでもありませんので、いつでも欲求不満な主体でもあります。
「スペクタクルの時代」でドゥボールが描いたようなこの状況、インターネットほかのインタラクティブinter-activeな時代には消失する、かと思いきや、よりいっそう増していきます。先ほどのジジェクの言葉はそのことを指す文脈で使われたものでした。受動性の空間の中にいた主体はそれ以外のすべを知らないが故に、新たな可能性を持つ空間を古い要求を最大限に発揮するべく利用してしまうのか、それともまた別の理由があり、必然的にそうなったのか、それをまたいずれ考えてみなければなりません。