このこどこのこ

日本の民俗学創始者にして泰斗柳田国男先生の御説によると、親と子という言葉は、じつは親分子分の意味の方が先なのだ、ということです。(それにしても出典はどこだろう。探さなきゃ)
まあ、原典を読んでいないのでせんせいがどのような家族形態を前提として考えていたのかは分からないのですが、ともかく、まあ母親というものがこの世に存在することはやむを得ない事実であるとしても、それが我々の考える親子関係でなくてもよいだろう、ということは認めても良いでしょう。そして、母親が存在するからといって、彼女がその子の面倒を見る責任者であっても、子供の身元引受人、後見人、はては帰属先が母親である必要はありません。まあ、村の子神の子、なんでもいいですのでしょう。
そう、なになに一家、という、あのやくざやさんのよく使う一家、あのニュアンスと一緒ですね。帰属集団が家族であるなら親子でしょうが、生物学的な両親と必ずしも一致する必要を認めていない集団が一家、その長が親で、その管理下にあるのが子、ということでしょう。

いや、それは今更こんなところで書かなくてもよいような、よく知られた話なのですが、ある日ふと股間を見て思うやう。これ、息子っていいますよね。ね?ね?

で、なんで息子なのだろう、と思ったときに、ふと考えたのは・・・もしかして同じパターンが使えるとしたら?そうだとしたら?つまり、股間の息子がさきに息子と呼ばれ、それと同じようなものとして、自分の種を受けた男の子を息子と呼ぶようになったのなら?

いや、語源学的な根拠がゼロですので、だれも誤解はしないと思いますがこれは頭からしっぽまでネタというか冗談なのですが、どうもこの思いつき、気に入ってしまったのです。

かつてアウグスティヌスは、股間のものを指して、神の罰としてつけられた、といっていたのだそうです(神の国だったか告白録だったか・・・)。つまり、何でも己が意のままになる、という傲慢を心に抱いた人間を罰するために、股間に肝心なときにこそ意のままにならない不幸なものをつけられた、と。
肝心なときに意のままにならない、まあここに過剰な情感がこもるのは男性諸子ならご理解いただけるとして、まずはそのような異他性を、そしてにもかかわらずそこにプライドやら(おおきいとか堅いとか・・・)人生やらほか諸々がかかり、そして息子として、暴れん坊としてetc.かわいがられているということ。この関係性です、注目したいのは。

フロイトはかつて、母親であることは事実だが、父親であることは確信だ、というジョークを好んで引用していました。この確信、それこそが文化です。全く自分に関係ないのにある日ひょっこりやってきた赤ん坊を、自分の子だと思えること。それは、男たちが常日頃、自分とは関係のない暴れん坊を自分のこととしてメンテナンスし、可愛がり、はぐくんできたたゆまぬ努力あってこそ可能だったのではなかろうかと。。。

今日も実に馬鹿馬鹿しいネタです。申し訳ない。しかし、こう考えると、わたくしイエス・キリストことナザレのイエスが神の子といわれた理由が分かるような気がするのです。
ある日突然、妻が「天使があなたが神の子を生むことになった」とゆってくるわけです。連れてこられる赤ん坊。この状況を納得しろというのはどだい無理な話です。にもかかわらず、大工のヨゼフはこの子を引き受けます。なんという愛。この確信を引き受けることの出来た彼こそ、神にも等しい偉人ではなかりましょうか世の男性諸子。
そう、だからイエスは神の子、なのです。神は本当にどっかにいるというのではなく、ヨゼフのこの行為の瞬間に神が宿ったのではないでしょうか。ん?いいすぎ?