貧乏学生

今回は、久々に読書会の記録から。ラカンセミネール第17巻、
LacanのL'Envers de la psychanalyse, p.170〜ですね

大学のディスクールでは、エージェントとしての知が、他者としての対象aに話しかけます。対象aはなんでしょう?学生だ、とラカンはいいます。それも搾取される。。。

その結果の産物が、分割された主体。どういう意味での分割された主体なのか、ラカンははっきりとは語りませんが、その後すぐにラカンは、教える側を再生産するだけの役割だけに留まっていることはどんどん不可能になってきた、といいます。
そう、大学の大衆化がいわれる時代だったのですね。そしてそれ以前、大学とは基本的には研究者の再生産の場でした。(まあ日本では官僚生産だったのでしょうが)つまり、教える側と教わる側は(知識、教養他の)量的な差はあれ、同じ舞台の上にいたわけです。ちょうどグールドが18世紀の音楽家と聴衆の関係で語っていたように。
しかし、この時代から、そこには断絶が生まれます。学生は学びに来たわけではなく、教授のパフォーマンスを見に来たのです。学生は享楽を手にしている、のでしょうか。しかし、学生は知の担い手であることは諦めねばなりません。

かつて、奴隷は同時に知の担い手でした。キケロの口述を書記したのが奴隷であったように。そして哲学者とは、主人の求めに応じて奴隷から知を引き出す(プラトンの対話が想起されますね)人間でした。「主人の知を構成する」とはラカンのおっしゃるよう。しかし、我々の時代、科学は主人のディスクールの側に次第次第に寄り添っていきます。それがガジェットだ、とラカンはいいます。書記奴隷が豊かな知性を必要としていたのに対し、現在の書記奴隷は録音ボタンのスイッチをぽちっとな、と押すだけ。エピステーメーからノウハウへ。
それは、道具を使うという点で道具の使い方に知性が必要とされた奴隷の時代から、機械の一部として機能するように定められたプロレタリアートへの変化、というマルクス的なヴィジョンに合致します。

こうしてみると、奴隷解放というのは進歩的な意味でのみなされたわけではない、ということになるとラカンはいいます。奴隷とプロレタリアートの最大のちがいが、知の所有権の有無であるとすれば、機械化産業によってもはや奴隷の知が必要とされなくなった以上、奴隷は必要ないのです。解放された奴隷は、その代償として知を失います。科学が機械化産業を支えるものであるとすれば、主人のディスクールに科学が寄り添っていくということはよく理解できるでしょう。

逆にいえば、主人のディスクールは科学を通じて、よりいっそう知のディスクールに似てくる、ということも言えるのかも知れません。権力はもはや純粋に象徴的な力であることを要しません。彼の持つ知が、その権力を保証するのです。権力はますます合理的に、それも純粋に合理的な様相をまとうことにようになるのでしょう。権力の持つ恣意的な力を失ったように見えるがゆえに、それは受け入れられるかもしれません。しかし、同時にその知を保証しコントロールし、ラカンの言葉を借りればmaitriserするものはなくなります。

主人のディスクールはかつてはもっと隠されたものであった、それは次第次第にその容貌をあらわにしていく、それにつれて大学のディスクールはよりいっそうよく分からない問題に直面していく、とラカンはいいます。大学紛争に直面していた時代ならではの空気が漂ってきますね。そして、教える−教わるものの対称性が失われたこの時代、大学で教えることはますますその場しのぎの雑多なことになっていくと(173ページ)。ああ、せんせいまさにそのとおり、これから大学はどんどん専門学校化、資格発行所(社会調査士とか。。。)になっていくのでしょう。そして、あらわになっていく主人のディスクールは科学のディスクールに支えられ、奴隷からプロレタリアートという、時代の担い手の変容を引き起こします。産業労働者の誕生ですね。ボタンを押すノウハウだけを知っている人たち。

それにしてもこうしてみると、なにものでもない、海のものとも山のものともつかないが故に生気にあふれた対象aとしての一回生が、二回生になるころまでにすっかり陰鬱な死んだような顔で授業を受けるようになっていくのは、その享楽を大学が搾取して、かわりに産業労働者としての知を与えているから、ということになるのでしょうか。
うーん、こっちも陰鬱になりそう・・・